top of page
検索

108 無常は絶対的

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年1月23日
  • 読了時間: 1分

 真理とは、ものがあるか否か、私がいるか否かではなく、すべて絶えず無常として流れている現象があることです。我々は花が散るのを見て、「ああ、無常だなあ」と言ったりしますが、それは本物の無常ではありません。私に言わせると、花を見た瞬間でも無常でしたし、それから散っている過程でも無常でした。それに気づかず、咲いている花と散っている花を比較して無常だと言うのは、本来の無常ではないのです。本物の無常は比較的でも対照的でもありません。無常は無常なのです。いつでも無常です。常にある真理なのです。絶対と相対という観点で言えば〈絶対的〉なのです。〈比較的〉ではないのです。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第2章 仏教の教えを理解する《無常》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【仏教と脳科学うつ病治療セロトニンから呼吸法・坐禅、想・まで 有田秀穂氏との共著 (2010年) p323】

 
 
 

最新記事

すべて表示
観察の汚れ:③ 喜pīti

観察の汚れ:③ 喜pīti  修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒

 
 
 
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 

コメント


bottom of page