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札幌仏教塾
捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくる
捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくる 捏造する段階は、どうしようもありません。ネズミの死骸を見て、「ご馳走だ」と捏造することは、カラスにとって問題ではありません。しかし、人間がネズミの死骸を「ご馳走だ」と捏造したら困った結果になります。ですからかならず、捏造はその生命の都合に合わせて、自然に起こります。もし捏造した概念を組み合わせて新たな概念をつくったならば、それは仏教用語で「見解」と言います。見解はとてもたちが悪いです。「間違っている」と、はっきり言えるものです。捏造は概念です。概念は客観的な事実ではありません。ありのままの真理ではありません。捏造した概念は、嘘だとも事実だとも言えません。ただ、その生命の都合に合わせただけです。この都合とは、生存することです。生き延びることです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p77】
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6 分前読了時間: 1分
見解の世界から脱出
見解の世界から脱出 見解が人の命を支配しているのです。Diṭṭhi 見解は概念から現れます。我々の概念は正しくありません。各生命は自分の都合に合わせて、六根に入る客観的データを合成して捏造して概念にします。 例えば「草」という単語を考えてみましょう。視力のあるヤギがその対象を見て、「おいしい食べ物だ」と捏造する。人間は「ただの草ではないか」と無関心な態度をとる。それは人間の捏造です。ネズミの死骸があるとしましょう。それを見る人間は、「不潔で気持ち悪いものだ」と捏造する。カラスは「ご馳走だ」と捏造する。そのように、誰もが、あるがままにものごとを認識しないのです。認識データは、「自分にとってどうなのか?」というスタンスから捏造するものなのです。金を見る人間は、「高価なものだ。欲しいなあ。なんてきれいなんだ」などの感情で認識するでしょう。金属である金を見ていないのです。猫なら、金が目に入ってもきっと無関心な態度をとるでしょう。自分にとっては関係のないものだからです。このように生命は、五根に入るデータを自分の都合に合わせて捏造します。思考能力がある人間は
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24 時間前読了時間: 1分
妄想が確認作業の邪魔をしない状態に達したら、心清浄
妄想が確認作業の邪魔をしない状態に達したら、心清浄 第一禅定に挑戦する修行者は、まず近行定に達します。ヴィパッサナー瞑想実践のためには、近行定の力でも充分です。あるいは、サマタ瞑想をまったくおこなわないでヴィパッサナー瞑想を始めても、一向に構いません。ヴィパッサナー実践で確認実践を続けると、思考・妄想は暴走しないところまで精神的に進むことができます。サマタ瞑想は結果を出すまでに時間がかかります。ですからサマタ瞑想を抜かして、ヴィパッサナーから修行を始めても構わないのです。サマーディの経験がなくても、解脱に達します。解脱に達するとは、煩悩を寝かしてあげることではなく、壊すことです。ヴィパッサナー実践が進んで、悟りに達するところに近寄ったとしましょう。そのとき、精神状態は第一禅定の近行定レベルです。悟りに達する瞬間で、心は第一禅定の力を持っているのです。というわけで、伝統に従ってサマーディ瞑想が済んでからヴィパッサナーに入る方法を取らなくても構わないということができます。ヴィパッサナーのみの方法は、結果が早いです。 ヴィパッサナー実践する方々は誰でも
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2 日前読了時間: 2分
思考・妄想が暴走しない状態
思考・妄想が暴走しない状態 サマーディが上がると、集中力が上がります。各サマーディで体感する経験も変わるのです。無色界のサマーディに達すると、心が物質に依存してはたらくことをやめます。 ヴィパッサナー瞑想に入ると、修行者がどんなサマーディに達しているのか、ということは問いません。実践的に言えば、無色界の四つのサマーディに達して、そのままいるならば、ヴィパッサナー実践はできなくなります。ヴィパッサナー実践で、物質(色)のはたらきも、心のはたらきも観察しなくてはいけないのです。ですからサマーディに入ったまま、ヴィパッサナー実践はできません。何かのサマーディに達して、五蓋を睡眠状態にしてもらいます。それから、眼耳鼻舌身意から情報を受け取って認識をおこなう普通の状態に戻って、ヴィパッサナー実践を始めるのです。ここで必要なのは、サマーディのお陰で心が暴走しない状態を獲得することです。思考・妄想が暴走しない状態とは、ある程度は心が清らかになった、ということです。ですから、心清浄というのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サン
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3 日前読了時間: 1分
第一禅定でも心清浄は完了する
第一禅定でも心清浄は完了する アビダンマ的には、サマーディのステージが九種類あります。どんなサマーディに達すれば、心清浄に充分と言えるでしょうか。ヴィパッサナー瞑想では、これを大きな問題として扱うことはしません。思考が暴走しない、安定した精神状態に達すれば充分です。ですから、「近行定か安止定」とだけ言われています。 昔の修行者には、修行する暇が充分にあったので、修行者は一生かけて修行するつもりでいました。ですから、基本的なサマタ瞑想から修行を始めたものです。色界の第一禅定から第五禅定まで達しようと努力して、各個人の精神力に応じた結果を得ます。五番目の禅定に達する人もいれば、第一禅定で止まる人もいます。強い精神力の持ち主であるならば、無色界の四つの禅定に挑戦することも可能です。どちらの禅定に入っても、仏教心理学では「五蓋を睡眠状態にしたことである」と説明します。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p74】
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4 日前読了時間: 1分
概念をかき回すことは、感情をかき回すこと
概念をかき回すことは、感情をかき回すこと思考・妄想するとは、概念をかき回すことです。各概念には何かの感情が付いています。例えば金、食事、教科書、ライバルなどの言葉は、心にとっては概念です。これらの言葉を一つ一つ読むと、各概念に何かの感情が付いているのではないでしょうか? その感情は人によって違います。言葉に感情が付いているのではなく、主観的な概念に感情が付いているのです。つまり、心の中で概念をかき回すことは、感情をかき回すことになります。ですから思考・妄想するたびに、煩悩が増えるのです。 心が常にやっているこの仕事は、ヴィパッサナー実践にとっては仇敵です。仇敵が活発にはたらくと、ヴィパッサナー実践を続けることはできなくなります。戒律を守っているのに、心が破れているのです。そのとき、近行定か安止定があれば、この問題は解決します。心が汚れていない状態になります。それで落ち着いて、妄想に邪魔されることなく、観察することができるようになります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p74】
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5 日前読了時間: 1分
安定した精神状態
安定した精神状態 近行定か安止定に達した心は、精神的に安定するのです。常に集中力が備わっていますし、感情の波は立ちません。眼耳鼻舌身意から入る情報に、揺らがないでいることができるのです。これは解脱ということではありません。活発にはたらいていた煩悩が睡眠状態になったのです。五根の情報に限られたことしか認識できなかった心が、その次元を超えたのです。解脱に達する仕事は、これからです。 ヴィパッサナー実践の場合は、「感覚を確認する」という作業をおこないます。そのときは、心が激しく攻撃します。その攻撃とは、とりとめのない思考・妄想の流れです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p74】
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6 日前読了時間: 1分
五つの蓋
五つの蓋 仏教心理学には、五蓋という用語があります。心が超越状態にならないようにかけられている五つの蓋ふたのことです。五蓋とは、① kāmacchanda 欲愛、② byāpāda 瞋恚、③ thīna-middha 惛沈・睡眠、④ uddhacca-kukkucca 掉挙・後悔、⑤ vicikicchā 疑の五つです。基本的には貪瞋痴のことですが、貪瞋痴のさまざまな機能を言い表しています。貪瞋痴ではなく五蓋という場合は、心が超越状態にならないように抑えておくはたらきを言うのです。人間で言えば、各人には自分自身の本名がありますが、人をタクシー運転手、教師、医者などと呼ぶ場合は、その人がどのようなはたらきをしているのか、ということを意識しています。本名よりも仕事を意識するのです。これと同じように、心の成長を妨げる仕事をする貪瞋痴は、そのはたらきを意識して言う場合には、貪瞋痴から五つの蓋という呼び名に変わるのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p73】
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7 日前読了時間: 1分
戒清浄の次に心清浄に達しなくていけない
戒清浄の次に心清浄に達しなくていけない 解脱を目指してヴィパッサナー実践をおこなう修行者は、戒清浄の次に心清浄に達しなくてはいけません。修行者に、近行定か安止定が必要です。サマーディに似ている状態か、サマーディに達した状態を、なぜ「心を清らかにした状態」としているのか、その理解が必要です。 戒律・道徳を守ることで、心の煩悩がしょっちゅう牙を剥いて心を乱すことをやめることができます。これに成功すると、煩悩に悩まされることなく、安らかに生活することができるのです。しかし、心の煩悩は活性化したままです。ただ戒律に邪魔されて、表に出ないだけです。心の中では煩悩がかき回されています。それで修行者はサマタ瞑想をします。瞑想が成功して、禅定に達します。禅定に達するとは、活性化している煩悩を睡眠状態にすることなのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p73】
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11月30日読了時間: 1分
心清浄とはサマーディのこと
心清浄とはサマーディのこと サマーディは八種類(アビダンマの分類では九種類)です。どんなサマーディに達するにしても、決まって二つのステップをたどります。1 upacāra-samādhi 近行定 サマーディ瞑想をすると、心がサマーディに完全に似た状態に達します。2 appanā-samādhi 安止定 心がサマーディ状態に達します。 近行定の場合は、修行者が瞑想中であるならば問題ありませんが、瞑想を中断するとその状態もなくなる可能性があります。不安定です。近行定から安止定に達したならば、本格的なサマーディです。その精神状態は、瞑想を中断しても壊れません。しかし気をつけて生活しないと、睡眠状態になった煩悩が目醒めてしまう可能性があります。煩悩が目醒めたら、サマーディ状態が壊れます。そうなると、また初めからやり直しです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p72】
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11月29日読了時間: 1分
戒清浄の完成
戒清浄の完成 戒清浄の場合、在家の方々は五戒、八戒、十戒などを学べば充分です。出家は四種類の戒律を守ります。出家・在家を問わず、戒律を守る目的を理解しなくてはいけません。戒律を守ったからといって、煩悩の根絶はできません。しかし戒律を守らない、道徳を重んじない生活をするならば、我々の生き方は獣の生き方と何の違いもないのです。煩悩の反乱を抑えるために、戒律を守ります。心清らかに保つために、冷静に生活することができるように、戒律を守るのです。時たま牙を剥こうとする煩悩を、その都度その都度、邪魔して抑えるために、戒律を守るのです。 心に煩悩が根づいているので、持戒は初心者には楽ではありません。しかし実践してみると、心が落ち着いてきます。道徳を守ることが自分の自然な生き方になるのです。そうして心が穏やかになったならば、戒清浄は完了です。 解脱に達するまでは、人間は不完全です。いくら注意して生きていても、過ちが起きます。ですから修行者は、日夜「懺悔」をするのです。その日に過ちを犯しても犯さなくても、どうでもよいのです。不注意で何か間違ったことをやった可能性も
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11月28日読了時間: 2分
競争の激しいこの世界で気楽に生きる
競争の激しいこの世界で気楽に生きる 食べるものや着るものなどは、いとも簡単に煩悩を刺激します。ちょっとした不注意で、寝ている煩悩が牙を剥いて暴走してしまいます。ですから、資具を使うたびに、釈尊の説かれた最低基準に基づいたフレーズを心の中で念じるのです。 この戒律は、在家には関係ありません。出家が念じる経典文句を唱える必要はありません。しかし理解しておけば、毎日の生活のストレスがなくなると思います。在家生活としての基準を超えて余計なことをやっているのだと理解していけば、競争の激しいこの世界で気楽に生きることができると思います。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p71】
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11月27日読了時間: 1分
衣・食・住・薬を必要とする意味を理解する
衣・食・住・薬を必要とする意味を理解する 俗世間は、「生きていきたい」という生存欲の衝動でまわっています。出家はこの罠にはまってはなりません。出家は、生きていきたいという生存欲を断って、解脱を目指します。ですから、決して満たせない欲を満たそうとする愚かな努力をいい加減にやめるのです。その方法はいたって簡単です。資具に対して、最低の基準を心に徹底的にインプットするのです。そして、最低の基準を理解するだけではなく、衣・食・住・薬を必要とする意味も理解します。 例えば、出家が食事をする目的を念じます。出家が皆、暗記する経典文句があります。「体力をつけるためではない。食欲にふけるためではない。美しくなるためではない。ただ、この肉体を維持するためです。空腹という苦しみを和らげるためです。修行の助けにするためです」。衣を着るときも、衣を着るたびに念じるべき経典文句があります。「寒さ暑さを避けるために、蚊・虫・蛇・風・陽射しなどに触れることを避けるために、恥ずかしいところを隠すために、この衣を着ます」。椅子、ベッド、住むところ等を使用するときに念じるフレー
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11月26日読了時間: 2分
出家戒律④ paccaya-sannissita-sīla「資具に依止するという戒」
出家戒律④ paccaya-sannissita-sīla「資具に依止するという戒」 四番目はpaccaya-sannissita-sīla です。「資具に依止するという戒」と訳されていますが、「資具に関する戒」と理解しておきましょう。資具とは衣・食・住・薬のことです。在家・出家を問わず、命を繋ぐために欠かせない四つです。俗世間では資具を得る行為が暴走しています。食文化は把握できないほど広いです。服やアクセサリーについても同じことです。住居も派手な建築文化になるまで暴走しています。また、医療の発展にしても、専門家にも追いつけないほど暴走しています。その理由は、「欲は満たせない」ことです。皆、欲を満たそうとしているのです。しかしそれは、喉が渇いたら塩水を飲むような行為です。飲めば飲むほど渇きが増すのです。ですから限りのない自然破壊、生命破壊の生き方になってしまいます。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p70】
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11月25日読了時間: 1分
出家は常に無執着の精神を保たなくてはいけない
出家は常に無執着の精神を保たなくてはいけない 律蔵には、生き方にかかわるたくさんの戒律項目があります。お布施を目的に説法すること、布施をいただくために祈祷をすること、自分がまじめに修行しているのだと言いふらして信者の気持ちを引くこと、在家の間の使い走りをしてあげることなどは禁止です。要するに「楽に生きられるように、私に布施が入ればいいなあ」と思うこと自体が禁止なのです。 とはいっても、出家比丘たちは苦しい生活をしているわけではありません。在家仏教徒たちも、理性のある立派な方々です。仏教は基本的に品格のある生活を要求します。ですから在家の方々は、出家者に苦労をさせません。気持ちよく、また気楽に修行できるように協力し、出家者にみじめな生活をさせません。仏教を教える伝道活動を気楽にできるように、惜しみなく協力してあげるのです。ですから出家は、この落とし穴に陥りやすいのです。常に無執着の心で布施をいただくよう、努めなくてはいけません。慈しみの気持ちは欠かせません。「裕福な信者さんたちがいる。お陰で裕福な出家生活ができる」という気持ちになったら、ājīva
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11月24日読了時間: 2分
在家が高い徳を積む
在家が高い徳を積む もし在家信者が、自分たちが徳を積むために、また出家の修行に協力してあげるために、料理を作ってお布施するならば、それは慈しみに基づいていただきます。在家が衣の面倒を見てくれるならば、慈しみに基づいていただきます。住むところを造ってくれるならば、あるいは病気になったときに薬をくれるならば、いただいても構わないのです。それによって在家が高い徳を積むのです。ですから布施をいただくことは、出家の無執着の慈しみのおこないでなければいけません。慈しみの気持ちがなく、「よかった。いいものをもらいました」という気持ちになったならば、心が汚れたということです。煩悩が牙を剥いたのです。それで生計を立てたならば、汚れた生き方になります。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p69】
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11月23日読了時間: 1分
生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為
生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為 人が生きるとは、自然破壊をすることです。いくらがんばっても自然破壊を避けられません。また、生きるとは他の生命にも迷惑をかける行為です。これも避けられません。生きていきたいと思うならば、それは自然と他の生命に対する破壊行為・迷惑行為になります。しかし出家は、この矛盾から脱出することができます。托鉢に出て、人がすでに調理した残り物の食べ物をいただいたならば、その出家が食べる分で自然破壊したことにはなりません。樹の下や空き家で夜を過ごすならば、住居を造るために自然破壊する必要はありません。人が捨てた服を拾って縫い合わせて衣を作れば、自然破壊したことになりません。病気になったら、仔牛たちの尿を取って飲めば、薬を調合するために自然破壊したことになりません。この生き方は、出家の基本です。「かならずこのとおりに生きなさい」という強制ではありません。それでは仏道の中道が壊れて、極端な道であると説かれた苦行の道になります。あくまでも基本です。出家はこの基本を憶えておくのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第
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11月22日読了時間: 1分
出家は仕事をしてはいけない
出家は仕事をしてはいけない出家の仕事は何でしょうか? 出家は仕事をしてはいけないのです。仕事をするとは、命を守るために何かの行為をすることです。生きる目的でおこなう行為です。解脱を目的に出家したならば、生きる目的を目指せないのです。この二つの目的は正反対です。しかし、解脱に達するまで生きていなくてはいけません。死ぬことは解脱ではないのです。死ぬ前に、煩悩を根絶して解脱に達しなくてはいけないのです。解脱を目的として出家した人は、その目的に達するまで生きている必要が生じます。それは、生きていきたいという生存欲ではありません。ただ否応なしに、生きていなくてはいけないことになっただけです。 とはいっても、命を繋ぐためには着るものと食べ物が必要です。住むところと病気にかかった場合の薬も必要です。在家はそれらを、仕事を通じていただきます。それに対して仕事をしない出家は、在家のお布施に頼るはめになるのです。しかし、お布施に頼ることは仕事をするより簡単であると誤解してはいけません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p
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11月21日読了時間: 1分
出家戒律③ājīva-pārisuddhi-sīla「生活の清浄という戒」
出家戒律③ ājīva-pārisuddhi-sīla「生活の清浄という戒」 三番目はājīva-pārisuddhi-sīla です。「生活の清浄という戒」と訳します。生活にかかわる戒律です。生活することによって、心が汚れないように気をつけることです。要するに、汚れた生活はいけない、ということです。 この説明だけでは理解できないと思います。「仕事」という言葉を中心にして考えてみましょう。在家の方々は仕事をして生計を立てています。もしその仕事が罪を犯すことになるならば、法律を犯すことになるならば、世間常識を破る行為になるならば、簡単に言えば「悪いことをして金儲けをしている」ということになるでしょう。例えば、麻薬を販売すること、武器を密輸して販売すること、インチキ薬を派手に宣伝して販売すること、などです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p68】
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11月20日読了時間: 1分
出家戒律② indriya-saṃvara-sīla「六根の制御」
出家戒律② indriya-saṃvara-sīla「六根の制御」 二番目はindriya-saṃvara-sīla といいます。眼耳鼻舌身意という六根を制御するのです。見たい放題見たり、聞きたい放題聞くのではなくて、見ても、心の中で欲と怒りが生まれないように気をつける。音を聞いても、心の中で欲と怒りが生まれないように、混乱しないようにガードする。ご飯を食べても、そのおいしさで欲か怒りが生まれないようにガードする。心の安定を守る。そういう戒律です。 このセクションは、瞑想実践に励む在家の方々もいくらか注意した方がよいところです。修行中、眼から、耳から、鼻から、口から入る情報に心が揺らいでしまったら、誘惑されてしまったら、修行を中断するはめになります。眼耳鼻舌身に入る色声香味触という情報によって、心にいとも簡単に欲か怒りが現れてしまうのです。感情が牙を剥いたことになります。在家の方々も解脱を目指して修行する場合は、修行中、この戒律を守るように精進した方がよいです。気づきの実践をしているならば、自然にこの戒律を守っていることになります。【アルボムッレ
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11月19日読了時間: 1分
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