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札幌仏教塾
観察の汚れ:① 光obhāsa
観察の汚れ:① 光obhāsa Obhāsa とは光のことです。瞑想中、頭の中にじわじわと光が現れてきます。まぶしくなるほど明るくなる場合もあります。光とは目を開ければ見えるものですが、この光は目を閉じていても見えます。座る瞑想を止めて歩く瞑想などをするときも、この光がどこにでも現れるようになります。当然、そうでない場合もあります。どの程度の光かということは個人差があると思います。目で光を見るのは普通に起きていることですが、強い光に当たるとまぶしくて決して楽な経験にはなりません。突然、強烈な光が目に入ったら、一時的に目が見えなくなることもあります。 困ったことに、瞑想中に出てくる光にはこのような問題がありません。困るどころか、修行者は喜びます。この喜びが執着に変わります。一番困ることは、「これこそが悟りの光である」と解釈することです。そうなると、まだ悟りに達していないのに、悟ったつもりになるのです。修行を終了してしまうのです。ですから邪魔です。障碍です。とはいっても、現れるときは現れます。 決して「光が現れてほしい」と期待してはなりません。
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18 時間前読了時間: 2分
観察の汚れ
観察の汚れ 五番目の道非道智見清浄のステージにいる修行者は、徹底的に観察を続けています。無常・苦・無我という角度で観察していますから、頭の中で無数の概念が飛び回ることもありません。智慧も現れているし、集中力も高いです。それから必死になって修行をしています。このような優等生の修行者が、いくつかの神秘体験を経験することはあり得ます。中途半端な気持ちで修行する人には現れません。しかし、この体験は智慧を開発する邪魔をします。執着を捨てる気持ちを邪魔します。神秘体験はヴィパッサナー修行者にとっても、面白いものです。つい執着してしまう恐れがあります。 ヴィパッサナーとは解脱を目指す道なので、それを邪魔して執着を引き起こすがために、ヴィパッサナー瞑想中に起こる神秘体験は、汚れ・障碍と呼ばれます。修行者は十種類の汚れとは何なのか、理解する必要があります。 これから、十種類の観の汚れのリストを、『アビダンマッタサンガハ』テキストの順番ではなく、『清浄道論』の順番に合わせて説明します。その方がベターです。抜けやすい障碍から、脱出しにくい障碍、という順番になって
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2 日前読了時間: 2分
五番目の道非道智見清浄のステージには十種類神秘体験だと名付けるべき経験が起こる
五番目の道非道智見清浄のステージには十種類神秘体験だと名付けるべき経験が起こる サマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想に入る修行者は、神秘体験・超越体験を目指していません。ヴィパッサナー瞑想は智慧が現れる瞑想です。観察能力が上達する度合いに合わせて、智慧が現れてくるのです。しかし、五番目の道非道智見清浄のステージに入る修行者に、少々困ったことが起こります。神秘体験だと名付けるべき経験が起こるのです。それは十種類に分けられています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p120】
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3 日前読了時間: 1分
神秘体験は決して信頼できないが神通は自分の意志で管理できる
神秘体験は決して信頼できないが神通は自分の意志で管理できる 脳の(心の)捏造機能を改良してない人々の神秘体験は、決して信頼できるものではありません。客観的に調べることができれば話は別です。しかし我々の脳は、突飛な経験、突飛な刺激を欲しがります。そして、常識を超えた何かを体験したら、その刺激にしがみつきます。忘れることはできなくなるのです。脳が麻薬に依存するのと似たはたらきです。 では『アビダンマッタサンガハ』テキストで説明した神通も当てにならない経験でしょうか、という問題が起きます。瞑想とは計画的に脳を開発することです。瞑想中に起こる、常識を超える経験を「再現」できます。制御することもできます。自分の意志で管理することもできます。神通とは、心の能力を計画的に開発することです。わけも分からないときに突然起こる神秘体験とはまったく違います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p120】
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4 日前読了時間: 1分
神秘体験とは日常的に起きる経験と違うというだけの経験
神秘体験とは日常的に起きる経験と違うというだけの経験 問題は、神秘体験を得た人々が、神秘体験に日常の経験と比較にならないほど高い価値を入れていることです。神秘体験こそが事実だと思うことです。ですから、神秘体験とは何かと、きちんと理解しておく必要があるのです。ほとんどの神秘体験は再現できません。ただ、本人の脳に忘れられないインパクトを刻むだけです。再現できる経験なら、調べる方法はいろいろあります。五根から入るデータを我々は正しく認識していると、皆、思っています。本当のところは、五根から入るデータを脳が捏造して知識として認識しています。捏造した概念を「経験」だとするのです。日常で起こる、五根に限られた認識データとかみ合わない認識が起きたら、世間はそれを神秘体験だとするのです。簡単な定義です。日常的に起きる経験と違うだけで充分です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p119】
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5 日前読了時間: 1分
神秘体験とはどのようなものか
神秘体験とはどのようなものか 瞑想する人々は、神秘体験を欲しがるようです。ときどき、瞑想しない人々にも神秘体験が起きたという話が耳に入ります。神秘体験を得た人は、自分が育てられた文化背景に合わせて解釈します。それから、それこそが真理だと言い張ったりします。見神体験、幻視、ビジョン、という言葉も使います。西洋の人々はキリスト教文化に合わせた解釈をします。イスラム教の人々は、自分たちの神秘体験をイスラム教に合わせて解釈します。ヒンドゥ教の人々はインド文化に合わせて解釈します。日本人は日本文化に合わせて解釈します。または西洋文化と日本文化を融合させて解釈します。神秘体験を得た人に「それは幻覚ではないの?」と言ったら、激しい反発に見舞われます。経験者は皆、「それから私の人生観が変わりました。生き方が変わりました」と言います。もちろん、そうは言っても実際は何も変わっていないという人もいます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p119】
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6 日前読了時間: 1分
あえて無常・苦・無我という真理に当てはめてする観察から得る智慧はsammasana-ñāṇa(思惟智)
あえて無常・苦・無我という真理に当てはめてする観察から得る智慧はsammasana-ñāṇa(思惟智) 普通の観察ではなく、あえて無常・苦・無我という真理に当てはめて観察するので、sammasana と言うのです。それから得る智慧は、sammasana-ñāṇa です。 この智慧に達すると、存在において何一つもよいところはないと発見します。俗世間では何一つも拠りどころにならないと発見します。評価するべき価値のある現象は、一つも見つかりません。それでは修行者はどうすればよいのでしょうか。解脱を目指すより他の道はありません。もう迷いはないのです。解脱を目指すのです。それで五番目の道非道智見清浄に達したことになります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p118】
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7 日前読了時間: 1分
すべてのnāma が無常である、すべてのrūpa が無常である
すべてのnāma が無常である、すべてのrūpa が無常である 『清浄道論』では、五蘊が無常・苦・無我であると観察するのだと説明してから、五十種類の無常の観察方法、二十五の無我の観察方法、百二十五の苦の観察方法などが説かれています。要するに、ありとあらゆる側面から無常・苦・無我を観察するのです。 五蘊が無常・苦・無我であると観察するのが基本です。しかし修行者が、五蘊とは何であろうかと困ったりするならば、実践はうまく進みません。自分が観察する現象を五蘊に分けることができなくても、かならず五蘊のいずれかなのです。『清浄道論』が五蘊に集中して解説するのは、お釈迦様が無常・苦・無我の観察を五蘊の観察の仕方として説かれているからです。しかしこの段階の修行者は、nāma とrūpa を区別する能力を持っています。Nāma-rūpa の因縁関係も知っています。その智慧を使って、「すべてのnāma が無常である、すべてのrūpa が無常である」のような観察も実践しやすいと思います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013
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3月10日読了時間: 1分
世間は常住、 楽、我だと信じている
世間は常住、 楽、我だと信じている 世間は前提として存在が① 常住(nicca)、② 楽(sukha)、③ 我(attā)だと信じていますが、客観的にデータを調べる修行者は① 無常(anicca)、② 苦(dukkha)、③ 無我(anattā)こそが事実・真理だと発見するのです。 一言でいえば、修行者は現象のありのままの姿を発見するのです。それなら一つの言葉で表しても構いません。しかし世間は、現象に対して三つの側面から勘違いしています。その勘違いに合わせて、さまざまな煩悩も生まれます。修行者は、その三つの側面が、正しくないと発見するのです。しかし修行者が、無常・苦・無我という三つの側面すべてを観察する必要はないと思います。いずれか一つを明確に発見すれば、それで充分です。解脱に達する段階になると、かならずそうなります。今は、五番目の道非道智見清浄の智慧に達しようとするところです。ですから、一切の現象は無常であり苦であり無我であると、すべての側面で観察した方がよいのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2
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3月9日読了時間: 1分
我が存在する(我論attā)という世間の勘違い
我が存在する(我論attā)という世間の勘違い 人々は、永遠不滅の魂がある、自分という実体があると、固く信じています。「何もない」と言われたら怯えます。永遠に変わらない自分という実体が潜んでいると思っているので、無常なる存在に対して徹底的に執着します。魂があると結論づけるために必要な、証拠もデータも皆無です。しかし前提として信じています。仏道の修行者は客観的な観察によって、「一個一個の現象が泡のようなもので、それが弾けて次の現象が現れているのだ」と発見します。我が存在する(我論attā)、という世間の勘違いに対して、修行者は、事実は無我(anattā)であると発見するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p117】
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3月8日読了時間: 1分
常住nicca 論は完全に間違っていて真理は無常anicca である
常住nicca 論は完全に間違っていて真理は無常anicca である 修行者は、先入観なしに客観的に自分の身体と感覚を観察します。外の世界の現象も観察します。すべては現れては消える、ということを現実として発見します。俗世間が持っているnicca 論は完全に間違っていて、真理はanicca であると発見するのです。 人々は楽・幸福・愉しみを探し求めています。探すのは構いません。しかし、なぜ幸福を探し求めるのかという、単純な疑問を抱きません。何かを探しているならば、何かを求めているならば、それは「今・ここ」にないのです。「生きることの中に幸福・楽などはない」と言われたら、何の躊躇もなく「あるはずです」ということにします。生きることが楽(幸福sukha)であるということを前提として受け止めているのです。仏道の修行者はそれを客観的に調べてみます。そして、観察する一個一個の現象、またはすべての現象は「楽」ではありませんと、発見します。一個一個の現象がおっかないものであるならば、生きることは全体的にもおっかないものです。世間の持っているsukha...
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3月7日読了時間: 1分
現象を三つの角度から観る
現象を三つの角度から観る 無常・苦・無我とは、現象のありさまを三つの側面から観察することです。その三つの側面は、俗世間的な人々が達している結論を参考にしているのです。ものごとを精密に観察しようともしない人々は、感情的・主観的な立場から、突然、結論に達しています。人々の好み・期待を結論にしているのです。決して理性的・知識的な態度ではありません。 まず我々は、なんでもかんでも存在しているのだと思っています。ものごとを認識すると、それが「ある」という気持ちが起こるのです。その気持ちを拡大させて、私がいる、世界はある、神がいる、などなどの妄想概念にします。自分が永遠に生き続けたいという気持ちは強いです。「永遠なんかはこの世ではあり得ない」と言われると、あの世で永遠不滅になりたいと希望を変更します。人の認識は常住(nicca)論を前提にしているのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p116】
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3月6日読了時間: 1分
anattā asārakaṭṭhena ─実体でないという意味で無我
anattā asārakaṭṭhena ─実体でないという意味で無我 修行者は、現象が現れては消える流れを観察しています。一つ一つの現象は小さな泡のようで、それが弾けて次の小さな泡が現れるような感じになります。 現象の中に何か芯のようなもの、種のようなもの、要するに実体のようなものがあるならば、一時的な現象が弾けてもその実体が残るはずです。カバンが破れたら、その中身が落ちてよく分かるようになります。しかしカバンが空っぽなら、破れたら破れただけでそれ以上の結果はありません。 現象の流れの場合は、一個一個の現象の泡が弾けて、次の現象が現れます。どこにも「実体」と言えるものは見つかりません。特に人は、自分とは何かという問題に最大の興味を持っています。それに関する哲学もたくさん現れています。 ヴィパッサナー実践が進んだ修行者は、自分という実体は成り立たないこと、存在もしない一時的な現象に、仮に「自分」と名付けるだけであることを発見します。このように無我を観察することになります。「無我だ、無我だ」と念じるものではありません。 【アルボムッレ・スマ
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3月5日読了時間: 1分
瞬間の現象に面白いもの、落ち着けるものはない
瞬間の現象に面白いもの、落ち着けるものはない このやり方で、他の現象も観察してみましょう。結果は同じです。見る・聴く・嗅ぐなど五感の認識の流れであれ、感覚の流れであれ、心の変化の流れであれ、一個一個の瞬間の現象は面白いものではありません。仕方なく、次の現象にたちまち変わらなくてはいけないのです。落ち着けるところ、これでいいやと思えるところは、どこにもありません。たまにあったとしても、瞬時にそれも変わります。この気持ちは俗世間的な言葉でいうならば、恐れ(ヤバイという感じ)になります。 これが苦を観察することなのです。ただ「苦だ、苦だ」と念じることでもないのです。一切の現象が自性として持っている「苦というはたらき」を発見します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p115】
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3月5日読了時間: 1分
dukkhaṃ bhayaṭṭhena ─恐れがあるという意味で苦
dukkhaṃ bhayaṭṭhena ─恐れがあるという意味で苦 集中力を持って瞬間瞬間の現象を観察すると、その一個一個の現象は決して面白いものではありません。 瞬間瞬間の膨らみの流れを観てみると、面白い膨らみなど一つもないのです。一個の膨らみが起きたら、仕方なく次の膨らみに続きます。それがまた次の膨らみに続くのです。膨らみの流れが終わったら、停止する感覚が起こります。それはそれで面白い感覚ではありません。縮みの流れをスタートしなくてはいけないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p115】
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3月3日読了時間: 1分
瞬間瞬間の膨らみが壊れて次の膨らみが現れる
瞬間瞬間の膨らみが壊れて次の膨らみが現れる 「膨らみ」と観察するときも、瞬間の小さな膨らみの流れです。瞬間的に、無数の膨らみが流れで起こります。それほど集中力がなかった初心者は、「膨らみ」と確認します。経験者は、「膨らみの流れ」を観ます。このステージでは、膨らみの流れの中で瞬間瞬間の膨らみが壊れて、次の膨らみが現れることに注意してほしいのです。要するに、同時にいくつかの膨らみがあるわけではない。一つの膨らみが変わることなく長く続くわけでもない。自分の身体・感覚・心のいずれを観察してみても、この法則は同じであると観えるのです。 これは無常の観察の仕方です。ただ「無常だ、無常だ」と念じても、意味がないと思います。言葉を念じるのは簡単です。しかし、肝心な言葉が示すはたらきを発見しなくてはいけません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p114】
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3月2日読了時間: 1分
aniccaṃ khayaṭṭhena ─滅するという意味で無常
aniccaṃ khayaṭṭhena ─滅するという意味で無常 修行者が現象を観察するとき、気づくべき特色があります。 音の例で説明します。修行中、何かの音が耳に入ります。それを確認します。前の聴覚が消えてから、次の音が耳に触れて新たな聴覚になります。雑念なく、高いレベルの集中力があるならば、すべての現象はこのパターンで起こるのだと発見することができます。 痛みを観察するときでも、ただ一貫して痛いのではありません。瞬間の小さな痛みの流れです。一個の痛みが消えて壊れて、次の痛みが現れます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p114】
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3月1日読了時間: 1分
因縁により生じるものは、無常に決まっている
因縁により生じるものは、無常に決まっている 理論的に説明すると難しく感じるかもしれませんが、答えは簡単です。お釈迦様が達した一切の現象に対する結論は、無常・苦・無我という三相です。今、修行者には、現象の因縁関係が観えています。因縁により生じるものは、無常に決まっているのです。自分の力で無常に気づけないならば、あえて「現象は無常である」と観るように、少々注意すればよいのです。無常・苦・無我はただの言葉です。どんなはたらきについてこのラベルの言葉を貼ったのか、知る必要があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p114】
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2月28日読了時間: 1分
sammasana-ñāṇa 思惟智は結論を出す気持ちを持って観察する
sammasana-ñāṇa 思惟智は結論を出す気持ちを持って観察する 簡単に説明したからといって、修行という仕事も簡単であろうと思わない方がよいです。修行者はさらに集中して、徹底的に現象のありさまを観察しなくてはいけません。『清浄道論』では、たくさんの観察の仕方を紹介しています。一人の修行者には、すべての観察方法を実践することは無理だと思います。『アビダンマッタサンガハ』テキストでは、分かりやすい方法を紹介しています。ここでsammasana-ñāṇa という新しい用語を紹介するのです。「観察する」という意味ですが、さらに観察する、詳しく観察する、詳細に観察する、繰り返し観察する、というようなニュアンスの「観察」です。この用語の日本訳は、思惟智です。 現象を詳細に分析して観察するのは、修行者がやってきたことです。そのときは、先入観などが入らないように、客観的に何も判断せず観察する方法を推薦しました。今度は、結論を出す気持ちを持って観察するのです。お釈迦様が最終的な真理を発見したので、弟子たる修行者が、お釈迦様の達した結論と違う結論に達するは
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2月27日読了時間: 2分
現象の世界は完全に駄目だとという微妙な心構え
現象の世界は完全に駄目だとという微妙な心構え 仏道は智慧を開発する世界なので、なんとかしたいと思っただけでなんとかなるわけではありません。「本気で解脱に達したい。それしか解決策はありません」という気持ちにならなくてはいけないのです。解脱を曖昧さなく揺るぎなく目指すためには、現象の世界には微塵もよいところがないのだと、明確に発見する必要があります。現象の世界は完全に駄目だと実証できたならば、その心は自然に、確実に、解脱へと赴きます。四番目の度疑清浄から五番目の道非道智見清浄に昇格するために必要なのは、この微妙な心構えです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p113】
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2月26日読了時間: 1分
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