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札幌仏教塾
お釈迦様が発見された因果法則
お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相依性)という特色を挙げて因果法則を説明しています。 因果法則についてはここでは詳しくは説明しません。一般の日本語で言えば、「A があるときB が生まれる」と言うとA とB の間には必然的な関係が生まれている。 ですからA があるときB があるのであって、A があるときたまたまB があるというわけではないのです。或いは「ほとんどA があるときB がある」というわけではないのです。因果法則では、ほとんど、たまたま、ときどき、というふうに、「A があるときB が生まれるときもあって、生まれないときもありますよ」という五分五分は絶対ありえないのです。 「A
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22 時間前読了時間: 2分
「因果法則」は存在そのものの研究成果
「因果法則」は存在そのものの研究成果 お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのものについて研究して、システムを発見して、それをしゃべっているのです。それがたまたま厳密に論理的になっただけです。世のなかにあることだから、それは当たり前のことです。
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4 日前読了時間: 1分
広げていけれど
とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです。誰かが「お釈迦様はよく論理的にしゃべります」と言ったら、かなり嫌だっただろうと思います。目の前ではなくて、どこか他の所で誰かがそういう話を広げてしまうと、そこへ出かけて行って反論してくるのです。「論理だけ」という評価はもうすごく嫌だったのです。そういうエピソードは経典にも残されています。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p21
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5 日前読了時間: 1分
記号論理学
記号論理学はかなり発展している学問です。最初は簡単。例えばA という定理(proposition)があってB という定理があるとすると、「A はB ですよ」ということを論理学的に言うと、A =B になります。そうすると数学なのですが、しかし、「A はB ですよ」ということは論理的には世のなかで例を出さなければいけないのです。これはなかなか大変です。例がないのです。いま言ったのは記号論理学の最初の定理です。スタートはそこからですが、そちらもなかなか、実例は出せない。一応出しているのは、A は人間である、と言えば、B は皆死んでしまいますと。ですからA はB ですよ、ということで、「全ての人間は死にますよ」ということになるのです。「何となくそうだなぁ」と分かるでしょう。でもA =B だったらB =A なのです。そうすると、「全ての人間は死にますよ」ということは逆にすることはできません。「死ぬ全てのものは人間ですよ」ということは言えなくなってしまうのです。間違ってしまうのです。だからそれで困ったといって、また、きめ細かく分けていってしまいます。ですから
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6 日前読了時間: 2分
「論理だけ」では意味がない
「論理だけ」では意味がない 理屈というのは数学と同じことなので、いくらでも広げることはできます。数学は抽象的なもので、存在するものではないから、数学的な方程式をつくったり、色んなことを考えたりすることはいくらでもできる。しかし、数学で言っていることを実際の世界に当てはめてみると全て完璧に当てはまるということはないのです。実際の世界に全く当てはまらない数学も説くことができます。論理学も同じです。特に記号symbol で論理を構成していく、記号論理学(symbolic logic)という論理学があります。その場合は現代数学も使って色んな論理を発展させていくのです。でも最終的に「実際の例を出してみなさい」と言ったら、例は出せなくなってしまうのです。
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8月8日読了時間: 1分
認識論的な診断
認識論的な診断 そこで、誰かが何か変てこな教えを説いているのならば、その人を認識論的に診断して、知識を得た方法を調べなくてはならないのです。先述した『梵網経Brahmajālasutta』には、お釈迦様の方法論の特色が記録されています。簡単に読める経典ですので、ぜひ読んでみてください。お釈迦様は哲学的に認識論の立場から、古代インドにあったあらゆる宗教哲学を分析しています。一つだけ例を出します。例えば「魂は無限である」という哲学がある。無限という立場を魂に当てはめて時と空に分けてみると、時間的にも無限であって、空間的にも無限であると二つありますけど、それまた、きめ細かく分析するのです。魂が空間的に有限か無限か、時間的に有限か無限か云々と。そこで哲学的に「我論」を二つに分けると、時間的な有限、無限という二つがあって、それから空間的に有限か無限かという相違が出てきて、その二つを組み合わせると、さらにたくさんの思想的な立場ができ上がってしまう。「空間的には有限だが、時間的には無限である。だから魂は小さいけれど永遠である」ということにもなるのです。一方
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8月7日読了時間: 2分
「理に適っている」見方を学ぶ
「理に適っている」見方を学ぶ それからyoniso-manasikāra という言葉がありまして、漢訳仏教語では「如理作意」となっています。理とは「ものの理」のことです。その「理の如く」に「意識(意)をはたらかす(作す)」ということなのです。いいかげんに自分の感情、感覚で、自分の好き嫌いで見るのではなくて、「理の如く」に見ればいい。それがありのままということなのです。如理作意という言葉はよく考えぬいて訳された仏教語なのですが、一般的には使われていません。一般的に我々が言うのは「理に適っている」という言葉です。理に適っているという場合の理というのは、どういう意味でしょうか。言っていることは正しい、論理的であるということでしょう。しかし如理の代わりに「理に適っている」という言葉を仏教で使う場合は、「事実に適っている」という意味になります。yoniso-manasikāra のyoniso は「原因」であって、どのようにこの現象ができたのか、現象がどんな過程でどのように生まれて、消えていくのかをしっかりとmanasikāra「観察する」こと。つまり因
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8月6日読了時間: 1分
如実に見るということ
如実に見るということ 正しい観察の仕方という意味で、パーリ語でいつでも使うのはyathābhūtaṃ passati「如実に見る」という言葉です。日本語で人気のある“ありのままに見る”という言葉はその訳です。日本語では一般的な言葉になっていますが、その意味は全然分かっていないようです。「ありのままに見る」というと、ただボケーッと見ることだと勘違いしているのです。仏教の世界では、「ボケーッとして放っておいて見る」ということでは、ありのままに見ることにはなりません。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p19
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8月5日読了時間: 1分
何かを理解する
何かを理解する、発見するとは、何かを認識することなのです。ですから、我々が何かが正しいと認識する場合は、その認識に至るプロセスが大事です。プロセスが間違っていると、認識も間違っていることになります。お釈迦様は他宗教の方々の考えについて一方的に批判することを止めて、その認識に至った過程が正しいか否かを調べるのです。要するに、お釈迦様は認識論(epistemology)を大事にしたのです。他人の意見に対しては、その意見に達した方法が客観的で事実に基づいているか否かを調べて、客観的でない場合、事実にあってない場合、人の努力は認めますが、達した結論は完全ではないと示すのです。長部経典の第一の『梵網経Brahmajālasutta』では、このようなアプローチで、様々な宗教哲学の相違点を示したのです。相手を自分の意見と比較して一方的に批判することはなかったのです。人の意見に対して柔軟な態度をとっても構いませんが、実践になると曖昧な方法ではいけないのです。あのやり方でもこのやり方でも良いのではないかと言われると、どうすれば良いのか分からなくなるのです。ですから
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8月4日読了時間: 2分
「唯一の道」を説く
「唯一の道」を説く 四つの実践方法を紹介するときはekāyano という言葉がありまして、これはone way、唯一の道、これしか道がないという意味で一般的には理解しています。パーリ語で言えば「比丘らよ、この道は唯一の道である……」と訳さなければいけないのです。他の経典ではそれほど断言的な言葉は出てきません。初期仏教の経典では、あとから勝手に編集できないように、厳密に真理を語っていますが、「これしかないよ」とわざわざ言う必要もないのです。お釈迦様は品格を大切にしていましたから、「私こそ真実を語っているんだぞ、他の人の説く真実を聞くな」というような言葉はないのです。逆に、「私が言っていることが嘘だと思うならば、嘘だと証明してみなさい」というふうに語ります。教えへのアプローチをオープンにしておくのです。なぜかというと、ブッダの教えは真理だから、誰がどのように研究してみても真理を発見する人は同じ真理を発見するはずなのです。しかし、他の人が真理を発見していない場合、お釈迦様はどうされるのでしょうか。「あの人の言っていることは間違っている」などとは言いま
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8月3日読了時間: 2分
経典の総説
経典の総説 2 ‘‘Ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo sattānaṃ visuddhiyā, sokaparid-evānaṃ samatikkamāya dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā. ‘‘Katame cattāro? Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādo-manassaṃ, citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya lok
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8月2日読了時間: 2分
経典が説かれた場所
経典が説かれた場所 1 Evaṃ me sutaṃ –ekaṃ samayaṃ bhagavā kurūsu viharati kammā-sadhammaṃ nāma kurūnaṃ nigamo. Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi –‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhaddante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca – 1 このように私は聞いた──あるとき、世尊は、クル国に住んでおられた。カンマーサダンマというクルの町があった。そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられた。「比丘たちよ」と。「尊い方よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。世尊はつぎのように言われた。 まずは場所です。記録に大切なのは場所と時間ですが、時間についてあまり経典では触れないのです。経典は全て、お釈迦様が亡くなったあと「結集」の場でまとめて編集されたものだからです。この経典は、インドのクルという州にあるカンマーサダンマという名前のクル人の大きな町(n
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8月1日読了時間: 1分
大念処経とはどんな経典か
大念処経とはどんな経典か はじめに、『大念処経Mahāsatipaṭṭhānasutta』という経典の名前について説明します。パーリ語でmahā は「大」、sati は「気づく」、paṭṭhāna は「何かをつくる方法」「建てる方法」「やり方」という意味です。sati-paṭṭhāna とは「sati の実践方法」という意味です。これは、sati をいかに実践すれば良いかという、sati そのものについて説かれた経典なのです。それでは、原文を最初から読んでみましょう。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p16
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7月31日読了時間: 1分
自分個人に適用できる教えを見つける
実践する方々は、この経典の内容を全てそのまま実践しなくてはいけないと思う必要はありません。人々には、様々な性格、様々な能力、様々な好き嫌いがあるものです。完全に同一の生命は存在しません。しかし、生きるという衝動はみな同じです。生き方がそれぞれ変わっているだけです。お釈迦様の教えは、全ての生命に適用できるように普遍的な立場で語られているのです。いかなる人間にも、自分の性格と生き方に適用する教えを見つけることができます。大念処経の場合も同じです。実践する方々には、自分個人に適用できる教えを見つけられるだろうと思います。しかし、実践は身・受・心・法という四段階になりますので、終わりまで読んで理解することが必要になるかもしれません。納得がいかないところ、疑問に思われるところなどを見つけたならば、そのまま信じる必要はありません。さらに調べてみたほうが良いのです。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p12
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7月30日読了時間: 1分
はじめに
はじめに 衆生にとって、(心の)清浄に達するための、愁い悲しみを乗り越えるための、苦しみと憂いが消えるための、正理を得、涅槃を目のあたりに見るための唯一の道である、『Mahāsatipaṭṭhānasutta(大念処経)』を読んで、理解してみましょう。原文を読んで理解できるならばそれに越したことはありませんが、現代人の世界観は昔と変わっているので、簡単に理解できて納得いけそうにないのです。というわけで、うるさく感じるほど延々と、大念処経について解説いたしました。解説は決して絶対的なものではありません。色々な角度から解説できるからです。本書では、お釈迦様の教えを実践する方々に焦点を合わせて説明したのです。実践することを念頭に置いた解説なので、学術的な註釈にはならないと思います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ 2016】
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7月29日読了時間: 1分
祈願
祈願 悪を恥じる、戒律を守る、智慧のある比丘たちは、ムーラソーマ寺院のことを長きにわたって大事にするようにと願っているのです。 正直なところ、たとえ註釈書を参考にしても私には意味を読み取りづらいです。アヌルッダ長老が、このテキストを作成することによってたくさん功徳を積みました。それにはムーラソーマ系統の寺院がよく協力してくれました。その寺に住んで仏教を学ぶ後輩の比丘たちが、ムーラソーマ系統の寺院の伝統も大事にしながら、悪を恥じる、戒律を守る、智慧のある比丘たちとして成長してほしいと、アヌルッダ長老が自分の得た功徳を廻向しているのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p174】
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7月28日読了時間: 1分
修行の勧めと願主
修行の勧め 『アビダンマッタサンガハ』テキストを書いたアヌルッダ長老が、我々に瞑想を勧めています。サマタ瞑想の仕方とヴィパッサナー瞑想のプロセスを詳しく説明しました。お釈迦様の教えを経験したい人々は、実践してみるべきです。 願主 人々のことをよく心配したナンパという方が、この論書を作成するようにアヌルッダ長老に頼んだようです。ナンパという人は、大物の仏教の信徒であったに違いありません。この偈げで願主の名前も後代に知られるようにしているのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p180】
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7月27日読了時間: 1分
滅尽定からの出定
滅尽定からの出定 不還者が出定するとき、最初に不還果心が一回起こります。次に心は有分心に変わります。阿羅漢が出定するとき、最初に阿羅漢果心が一回起こって、心は有分心に変わります。 有分心から認識をどのように管理するのかということは、その聖者次第です。とはいっても、心はいい加減に揺らいでしまうものではありません。聖者は下のサマーディに順番に落ちて常識範囲に戻るか、滅尽定の後で直接、常識範囲に戻るかします。これでヴィパッサナー瞑想の説明は終了します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p179】
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7月26日読了時間: 1分
滅尽定に入るための準備と実践
滅尽定に入るための準備と実践 例えば用事があって、朝五時に起きなくてはいけないことになりました。寝る前に自分の心に「五時にかならず目が覚めます」と言ってあげれば、五時少々前に目覚めます。誓願は暗示ではありませんが、ともかく心は前もって決めたことをおこなうのです。ですから滅尽定に入る聖者は、いくつかの項目を誓願するのです。① 衣・鉢・住居など周りのものが禅定中被害に遭わないように。② サンガに呼ばれたら、その時点で禅定から立ち上がるように。③ 同じくブッダに呼ばれたら、その場から立ち上がるように。この三つのことを誓願します。そして④ 自分の寿命がどれくらいあるのか、調べておきます。死ぬ間際なら、滅尽定に入れません。滅尽定に入っている時間より寿命が長くなければいけません。仏教では、滅尽定に入ったらそのまま七日間いるのが常識のようです。自分の寿命が七日以内だったら、滅尽定を諦めます。これは大掛かりな場合だと思います。お釈迦様が短い時間で滅尽定に入って、それから立ち上がった話は註釈書などにたびたび出てきます。 以上、四つの項目は滅尽定に入るための準備
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7月25日読了時間: 2分
滅尽定の準備
滅尽定の準備 滅尽定はとても経験しにくいサマーディです。サマーディ瞑想に達して、優れた能力のあるプロの修行者でない限り、滅尽定という状態は起こりません。仏典でも滅尽定に入ったケースは少ないです。しかしお釈迦様は、暇があったらよく入られていたようです。阿羅漢の聖者たちも滅尽定に入った記録はありますが、お釈迦様のように日常茶飯事な感じで入ることはできなかったようです。 滅尽定に入るための準備があります。瞑想を始める前に、いくつかの項目を誓願しなくてはいけないのです。誓願とは、後に起こってほしい現象が決まった時間で起こるようにと、心で決めることです。 一般の方々に少々分かりにくいので、現代的な喩えを出します。催眠術のことはよく分かるでしょう。催眠術にかかった人は、催眠術師が言うとおりに誘導されます。Posthypnotic suggestion 後催眠暗示という現象があります。催眠中、催眠術師が「後であなたは◯◯ をします」と暗示をかけます。本人は目覚めて普通に行動しますが、催眠術師に決められた時間がくると、暗示で示された行動をかならずします。「
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7月24日読了時間: 2分
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