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札幌仏教塾
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa 一切の現象は怖畏のみをつかさどるのが本性であるならば、現象に対する未練を捨ててしまうのが理性的です。おいしそうに見える食べ物がある。食べたいという気持ちもある。その食べ物を徹底的に調べてみたところ、少量服用しただけでも死に至る猛毒で汚染されていると発見する。その発見と同時に、その食べ物に対して今まで持っていた未練は跡形もなく消えるのです。 現象をさらに観察し続ける修行者が、一切の現象に対する未練を捨ててしまうのです。この状況を厭離智と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p146】
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22 時間前読了時間: 1分
一切のものごとの短所を発見する
一切のものごとの短所を発見する ありのままの現象を観察する修行者には、いとも簡単にすべての現象の短所が観えます。短所という言葉を使ったからといって、滅する現象に長所があるわけではありません。ただ怖畏だけ感じても、智慧は足りません。なぜ怖畏なのかと、明確に知った方がよいのです。言葉にすべき理由などはありませんが、現象はなぜ怖畏なのか、明確に発見します。「こういうわけで現象は怖畏です」というような発見が起きます。観察するどんな現象についても、この智慧が当てはまります。俗世間の言葉に入れ替えるならば、一切のものごとの短所を発見することに成功したのです。この智慧は過患智です。 この智慧も、心にさらに強いインパクトを与えます。現象は「ただなんとなく怖畏」ではないのです。怖畏は現実です。一切の現象は確実に怖畏のみを与える特色を持っているのだと発見すると、インパクトはさらに強くなります。執着は成り立たないということ、執着するとはあまりにも愚かな行為であることを、さらに強く発見します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2
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2 日前読了時間: 1分
悲観主義者ではなく現実主義者
悲観主義者ではなく現実主義者 海の喩えに戻れば、なんとか理解できると思います。ぼろぼろになった浮き輪に頼って大海のまん中をさまよっている人が、自分の置かれた状況を観察すると、常識を超えた恐怖を感じるでしょう。だからといって、やることはないのです。ただ、自分の状況を観察します。浮き輪に目をやる。見るからにぼろぼろです。波に当たるたびに、古くなったゴムが壊れていきます。決して強くなったり、新しくなったりはしません。自分の身体を見る。潮の中にいるので、身体が壊れていきます。決して、健康な身体になるわけではないのです。高い波が来る。それに当たったらどうなるのか分かる。サメなどの魚を見る。サメが自分を見つけたら、何をするのか分かる。決して、背中に乗せてどこかの島へ運んでくれるはずはありません。このように、周りにあるものはすべて、自分の死を早めるものばかりであると観ることは悲観主義でしょうか? 悲観主義者ではなく現実主義者です。もしその人が楽観主義者になって、「言葉を喋れるウミガメが来て、きっと自分を陸地まで運んでくれるに違いない」と思っても事実は変わらな
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3 日前読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa
六番目の行道智見清浄:④ 過患智ādīnava ñāṇa 修行者は、滅するばかりの一切の現象に対して怖畏を感じました。執着することは想像もつかない愚かなことであると、この時点で当然、知っています。しかし知ったからといって、煩悩という感情は消えません。もしかすると観察能力がまだまだ足らないかもしれません。智慧がまだまだ足らないかもしれません。修行者はさらに集中力を上げて、nāma-rūpa を観察します。具体的に一つ一つの現象の何が悪いのか、何が危険なのかを観るようにします。 このように説明すると、修行者はあえて悲観主義者になろうとするのではないかと誤解するかもしれません。それは言葉では説明できない心の状況を、ここであえて言葉で説明しているからです。修行者はわざと悲観主義の色眼鏡をかけたりはしません。修行を始めたときから、主観でものごとを観る癖を直してきたのです。客観的にありのままにものごとを観察する能力を育ててきたのです。今さら、何かの偏見に乗る必要はありません。修行者はただ、高度に育てた集中力で現象を観察しているだけです。Nāma であれr
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4 日前読了時間: 2分
助からないのは確実なのに「なんて美しい海でしょうか」と海に執着する
助からないのは確実なのに「なんて美しい海でしょうか」と海に執着する もう一つ、喩えを出します。人が大海のまん中で遭難したとしましょう。ぼろぼろになった浮き輪くらいはあります。それもそれほど長持ちしないと分かっています。浮き輪のゴムが波に当たって壊れていくのです。こんなとき、かならず助かると思って、いい気になっていられるでしょうか。東西南北どこに流されても、限りのない海です。遠くに船が通るのが見えても、水面から頭しか出していない自分は絶対、気づかれません。そのまま無事にいることができたとしても、浮き輪が壊れていきます。水の中にいますから、結局は身体も壊れていきます。下から大きな魚に襲われて自分が食われてしまう可能性もあります。助かる見込みは、一兆分の一もありません。ほぼ皆無です。この場合は「怖くてたまらない」という言葉さえも当てはまりません。常識的な怖さを超えています。 現象はすべて滅するのだと発見した修行者が、この喩えと似たような、常識を超えた、しかし理性に基づいた怖さを感じるようになります。 この状況は、前よりも強いインパクトを心に与えます
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5 日前読了時間: 2分
執着ばかりをして生きてきた生き方が愚かだったと分かる
執着ばかりをして生きてきた生き方が愚かだったと分かる 蛇が怖いと思う人は、蛇を抱いたりはしません。抱いてみようと妄想もしません。逃げたいのです。一切の現象の滅を観てから、心に怯えが生じます。そして何ごとに対しても、執着したいという気持ちは微塵もなくなるはずです。このステージでは執着がなくなるのではなく、今まで執着ばかりをして生きてきた生き方がどれほど愚かだったか、分かります。怯えるべきもの、怖いと思うべきものに対して、執着をしていたのだと分かるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p143】
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6 日前読了時間: 1分
滅よりも強烈なインパクト・怯えを感じる
滅よりも強烈なインパクト・怯えを感じる 俗世間の話を止めて、修行者の心の中を覗いてみましょう。修行者はnāma であれrūpa であれ、一切の現象は確実に滅するのだという事実に引っかかっています。滅ばかりが気になっているのです。そうすると心が法則的に「怯え」を感じなくてはいけませんから、当然、怯えを感じます。しかしこの怯えは、「財布がなくなった」というときの怯えのようなレベルの低いものではありません。修行者の認識レベルはとっくに常識を超えています。修行者は、一切の現象が確実に滅するのだと知っています。何一つも頼りにならない。何一つも執着するに値しない。なんでもかんでも瞬時に消えてしまう。滅してしまう。なくなってしまう。ここで、滅を感じたときよりも、強烈なインパクトが生まれるのです。怯えを感じるものに対して、誰も執着しません。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p143】
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7 日前読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:③ 怖畏智bhaya ñāṇa
六番目の行道智見清浄:③ 怖畏智bhaya ñāṇa まず世間話から始めましょう。世間話なら理解しやすいです。何か壊れた、なくなったと言われたら、どんな気持ちになるでしょうか。あなたの家に泥棒が入って高価なものをすべて持っていかれた、通帳もハンコもカードも持っていかれたと言われたら、またそれが事実であるならば、どんな気持ちになるでしょうか。その気持ちは、明確に言葉で表現できないかもしれませんが、分かりやすく言えば「怯え」を感じます。 なくなることを妄想すると、不安になります。仕事がなくなったら、貯金がなくなったら、親が亡くなったら、家に泥棒が入ったら、などなどを妄想すると、不安でたまらなくなります。これは心の法則です。なくなる、ということが事実であると分かったら怯えを感じたり、なくなるだろうと分かったら不安を感じたりするのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p142】
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4月30日読了時間: 1分
滅の流れに心が引っかかってしまう
滅の流れに心が引っかかってしまう ここでは、修行者が生滅を観られる能力を育てたところで、滅するという特色に引っかかってしまったのです。それは自然な流れです。普通の世界でも起こることです。滅の流れに心が引っかかってしまったら、さらに強いインパクトが生まれます。そのインパクトにより、貪瞋痴などの煩悩を抱くことが余計で無意味であると、さらに分かってきます。心が一切の現象の「滅する」という特色に引っかかってしまうことが、壊滅智です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p142】
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4月29日読了時間: 1分
生より滅するという現象の方がインパクトが強い
生より滅するという現象の方がインパクトが強い 俗世間のレベルでも、似た現象があります。赤ちゃんが生まれたとしましょう。皆、感動します。楽しくなります。しかしそのうち、誕生のときの喜びが消えてしまいます。子供が亡くなったとしましょう。そのときの悲しみは、誕生の喜びよりは強烈です。忘れられません。月日が経っても、心には悲しみが刻まれています。要するに、生じるという現象より、滅するという現象の方がインパクトが強いのです。 観察する修行者の心は、現象の生滅ではなく、現象の滅に引っかかってしまいます。すべての現象はことごとく生滅の流れで成り立っているのだと発見したときも、心に強いインパクトが入ります。そのインパクトにより、煩悩が揺らいでしまいます。煩悩とは無知な人々が余計につくる感情であると、分かってしまうのです。 現象の本当の姿が生じて滅することであるならば、執着をしたり、欲を抱いたり、怒ったり、希望をつくったりするのはあまりにも無意味な、成り立たない、無駄なことであると分かります。ですから、観察から生じる「インパクト」が大事なのです。...
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4月28日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:② 壊滅智bhaṅga ñāṇa
六番目の行道智見清浄:② 壊滅智bhaṅga ñāṇa 修行者は五番目の道非道智見清浄のステージでたくさんの観察方法を試したはずです。Nāma とrūpa に分けて観察したり、五蘊として観察したり、眼耳鼻舌身意(六根)と色声香味触法(六処)とそれから生じる眼識耳識鼻識舌識身識意識(六識)などに分けて観察してみたりしました。さらにすべての現象を無常・苦・無我の三相に合わせて観察してみました。 観察能力が向上して、現象の変化の流れに合わせてみようとしたところで、心が生滅の流れに引っかかってしまったのです。生滅を観られるようになると、さらに詳細に観察したくなります。生滅ばかりを観察していても、自分が精進している気持ちが弱くなってしまいます。今のステージの修行者は、決して精進する意欲を弱めません。さらに詳細に観察しようとすると、生と滅という二つの特色の中で、滅するという特色が際立ってきます。生じるという特色よりも、滅する・消える・無くなるという特色の方が認識しやすく、分かりやすくなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式
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4月27日読了時間: 1分
生滅智は心が勝手に現象の生滅に引っかかってしまう状態
生滅智は心が勝手に現象の生滅に引っかかってしまう状態 上達した修行者も、普通に現象を確認しようとします。雑念が割り込んでこないので、明確・精密に確認できます。現象をnāma とrūpa に分別することもできます。現象の変化のスピードに合わせて確認しようとすると、生滅の流れが際立ってきます。集中力が、現象にではなく、生滅していくことに入ってしまいます。生滅の流れが気になるのです。引っかかるのです。この世には無数の現象があるようですが、結局、すべては生滅の流れに過ぎないのだと、分かってしまうのです。修行者が何を確認しても、心が勝手に現象の生滅に引っかかってしまう状態は、生滅智と言います。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p141】
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4月26日読了時間: 1分
生滅という現象は自分勝手に出てくる
生滅という現象は自分勝手に出てくる 雑念が割り込んだりしている修行者には、このように正知を伴うsati の実践は難しいです。六番目の行道智見清浄のステージに入った修行者になって初めて、できるようになります。 この世にはときどき、先走りしたがる人々もいるものです。その人々は、無理やり生滅を観てやろうと試します。そのときは、推測や思考が絡んでいるのです。本物の智慧ではありません。先走りする癖を直さなくてはいけません。私は個人的に、このようにアドヴァイスします。「無理に思考を活かして生滅を観る必要はありません。それでも、それは事実ではないのかと異論を考える必要もありません。生滅という現象は、自分勝手に出てきます。自分勝手に出てきたら、生滅だと確認しなさい。そこまでは普通の膨らみ、縮みの実況で結構です」 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p140】
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4月25日読了時間: 1分
ラベルを貼っても生じて滅する、nāma の流れであると知る
ラベルを貼っても生じて滅する、nāma の流れであると知る これからの変化過程を普通の言葉に乗せて説明しますが、実際に修行する修行者の心の中の状況を言葉にしてそのまま説明することは不可能であると理解した方がよいです。 修行者は確認作業を続けます。現象の変化の流れに沿って、確認しようとします。できなくなると、さらに集中力を上げて観ます。自分は自分好みの、また今までやっていたとおりの言葉を頭の中で念じているかもしれません。しかし現象の変化の速さに合わせようとすると、一つの特色が際立ってくるのです。それはいかなる現象であっても、生じて消えることです。たとえ「膨らみ」と言葉のラベルを貼っても、実際そちらにあるのは瞬間瞬間、生じて滅する膨らみの流れです。Rūpa を確認するとき、そうなります。 「膨らみ」と言うためには、膨らみを感じなくてはならない。その感覚も瞬間瞬間、生じて滅する流れです。修行者はこの場合、「膨らみ」と言葉でラベルを貼っても、そこに実際起きているのは、瞬間瞬間、生じて滅する、nāma の流れであると知っているのです。...
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4月24日読了時間: 1分
知る範囲を広げて確認作業をする
知る範囲を広げて確認作業をする 喩えで説明します。台風が公園を通過しました。しっかり晴れました。しかし公園は、落ちた枝・葉っぱや飛んできたゴミで散らかっています。それは迷惑ですが、埃や汚れが洗い流されているぶん、公園は前よりきれいになっています。次の作業は、ゴミを拾って処分することです。ゴミを拾うとなると、ゴミ袋が必要です。ゴミを分別しなくてはいけません。一番便利なやり方は、すべてのゴミを一つの袋に入れるのではなく、分別する項目に合わせてゴミ袋の数を増やすことです。四種類に分別するならば、ゴミ袋は四枚。五種類に分別するならば、ゴミ袋は五枚、という調子です。 このステージの修行者の言葉の使い方は、ゴミ袋の使い方と似ています。落ちた雑誌を拾う場合は、雑誌であることも知っているし、紙であることも知っているし、燃えるゴミか再生ゴミかも知っています。燃えるゴミなら、その袋に入れる。再生ゴミなら、再生ゴミの袋に入れる。ゴミを拾う人は、それほど苦労しないでこの難しいプロセスをおこないます。修行する人も、膨らみ、痛み、などの言葉を使っているかもしれませんが、
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4月23日読了時間: 2分
現象に言葉が追いつかない状態を処理する
現象に言葉が追いつかない状態を処理する 修行者がこれからどのように観察するのか、というプロセスを言葉で説明することはできません。今までは、「実況中継するのだ」と言い続けてきました。集中力が上がって、煩悩が睡眠状態になって、雑念が出ない状態になっています。現象が変化するスピードに合わせて、観ることができるようになっています。俗世間的な「膨らみ、縮み」などのラベルを貼ってみても、現象の変化は想像を絶する速さで起こるのだと、修行者は分かっているのです。その速さに合わせる言葉は、言語の世界に存在しません。とはいえ何か言葉のラベルを貼っておかないと、集中力と落ち着きが低下する可能性があります。智慧を開発している修行者は、現象に言葉が追いつかない状態をどのように処理すればよいのか、自分で判断する能力を持っています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p139】
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4月22日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄:① 生滅智udayabbaya ñāṇa
六番目の行道智見清浄:① 生滅智udayabbaya ñāṇa 五番目の道非道智見清浄のステージでは、心の中を台風が横切っているような状態です。六番目の行道智見清浄のステージに入るときの気持ちは、台風一過の青空のようです。神秘的な体験を感じたりさまざまな心の変化を感じたりしていた修行者は、それらが何もなくなったとき、修行のレベルが落ちてしまったような錯覚にも陥りやすいものです。台風が通過しているときは、変化が分かりやすいです。そして台風が通過して晴天になったとき、環境が元に戻ったわけではありません。前よりはきれいになっているはずです。修行者は、実践が元に戻ったという気持ちを抱いてはなりません。さらに集中力を上げながら、観察作業を続けるべきです。それはそれほど難しくありません。解脱に達するべきであると、心が決定しているのです。ですから、観察を止めたくても止めることはできなくなっています。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p138】
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4月21日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄は八の観智(ヴィパッサナーの智慧)で成り立つ
六番目の行道智見清浄は八の観智(ヴィパッサナーの智慧)で成り立つ 六番目の行道智見清浄には進む順番があるのです。この順番は八項目で成り立ち、八の観智(ヴィパッサナーの智慧)と言います。 それにsaccānulomika ñāṇa 諦随順智(真理随順智)を足したら、ヴィパッサナーの智慧は九つになります。これをパーリ語で「nava-mahā-vipassanā-ñāṇa 九つの偉大なるヴィパッサナーの智慧」と言います。ここまでは六番目の行道智見清浄です。それにもう一つ、智慧を足します。修行者が聖者として生まれ変わる瞬間のことです。Gotrabhū ñāṇa 種姓智と言います。それでヴィパッサナーの智慧は十種類になります。十種類の智慧とは、① 生滅智、② 壊滅智、③ 怖畏智、④ 過患智、⑤ 厭離智、⑥ 脱欲智、⑦ 省察智、⑧ 行捨智、⑨ 諦随順智、⑩ 種姓智です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p138】
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4月20日読了時間: 1分
六番目の行道智見清浄のステージ
六番目の行道智見清浄のステージ 花を買った人が、それを活けることにする。精神を成長させた修行者が、精神を整理整頓して修行を続けることに決める。これからのステージは六番目の行道智見清浄になります。 花を活けるときも、けっこう技術が必要です。ただ花瓶に入れただけでは、うまくいきません。プロの華道家なら、見事にその花を整理整頓して順番に、また、ものの見事な速さで、花を活けていきます。人の心を驚かせる素晴らしい作品に仕上げるのです。修行者も似たようなプロセスで精神を向上させていきます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p138】
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4月19日読了時間: 1分
五番目の道非道智見清浄のステージ
五番目の道非道智見清浄のステージ この喩えをヴィパッサナー実践者の精神の変化に当てはめてみましょう。修行者は苦労しながら丹念に実践します。心の弱みがなくなったり、集中力が成長したり、気づきの実践が上手にできるようになったりします。智慧も段階的に上がっていきます。心の中に、今たくさんの財産が溜まっているような状態です。それは花屋さんで選んだ花が家のリビングに置かれているようなことです。このように、修行者にしても、能力が上がっているのになかなか落ち着かない状態があるのです。花を買った人がそれを活けましょうと決めるように、修行者もこれから精神状態を整理整頓してしっかり修行を続けましょうと決めるのです。 この決定に達するところまでが、五番目の道非道智見清浄のステージです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p137】
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4月18日読了時間: 1分
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