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札幌仏教塾
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる
自我は存在しないという発見の次に涅槃を経験したのだと分かる それから、今現在の心を観察します。何を発見して心が涅槃に入ってしまったのか、観察します。すると、自我は存在しない、成り立たない、因縁によって一時的に起こる現象に対しての勘違いに過ぎない、という発見の次に、涅槃を経験したのだと分かるのです。要するに、「有身見」が消えたのです。修行者は、仏道が正しい道であると経験しています。ですから「疑」もないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p163】
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4 時間前読了時間: 1分
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する
涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察する テキストでは、magga 道、phala 果、nibbāna 涅槃、根絶した煩悩、残りの煩悩を観察するのだと説明しています。この順番で観察する必要がある、というわけではありません。修行者は自分が気になる順番で観察すると思います。悟りの経験は並外れた大胆な経験です。そのときは、心さえも存在しなかったのです。修行者は、認識の流れが戻ったら、まずそれを観察するでしょう。生じることもなく、滅することもなく、作られたものでもない、完全な安らぎであると称すべき、涅槃とはこの瞬間前に起きた経験であると観察します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p163】
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1 日前読了時間: 1分
強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する
強烈な集中力でほんの瞬間前に何が起きたのか観察する 果心が起きてから、心は有分心になります。それから普通の認識過程に戻ります。普通の認識過程といっても、五根から情報を得て混乱している心のレベルではありません。強烈な集中力で、観察能力がついている心です。その能力を活かして、観察します。ほんの瞬間前に何が起きたのか、観察するのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p162】
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2 日前読了時間: 1分
ヴィパッサナー瞑想の禅定は解脱を経験するだけ
ヴィパッサナー瞑想の禅定は解脱を経験するだけ サマタ瞑想で達する禅定と、ヴィパッサナー瞑想の禅定は、決して似ていません。悟りに達するとは、大胆な出来事です。心は一切の現象の次元を破るだけではなく、煩悩も根絶するのです。道心も果心も、一切の概念が現れない、それらを超えた状態なので、修行者は解脱を経験するだけになります。煩悩がなくなったか否か、解脱に達したか否かなどを、考えられる境地ではないのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p162】
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3 日前読了時間: 1分
後の観察
後の観察 果心が終わったら、paccavekkhaṇā-ñāṇa 観察智が生じます。「自分の心に何が起きたのか」と観察しなければなりません。 サマタ瞑想の場合も、禅定に達した瞑想が終わってからは、普通の認識の流れに入ります。そのとき、禅定の中身は何なのかと観察しなくてはいけません。ヴィパッサナー瞑想は初めから、観察瞑想です。ヴィパッサナー修行の結果として解脱に達することに成功した修行者は、その禅定が終わってすぐ、特別にアドヴァイスしなくてもかならず観察を始めます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p162】
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4 日前読了時間: 1分
Lokuttara-samādhi 出世間定が終わってから普通の認識のもとで確認する
Lokuttara-samādhi 出世間定が終わってから普通の認識のもとで確認する Lokuttara-samādhi 出世間定に入ったときは、すべての現象を乗り越えた解脱という真理の境地です。そのときは、思考どころか認識のはたらきもありません。しかし間もなく禅定が終わって、心は普通の認識過程に戻ります。そのとき、修行者は自分が解脱に達したことも、煩悩がなくなったことも、なくなった煩悩が再び現れないことも、苦しみを脱出したことも、確認します。それらの確認は、普通の認識のもとでおこなうのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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5 日前読了時間: 1分
phala-citta は涅槃を対象にする ?
phala-citta は涅槃を対象にする・・ 心とは対象を認識するはたらきであると定義するのです。ですからphala-citta にも対象が必要であるという理論が成り立ち、涅槃を対象にするのだと言われています。涅槃とは、認識を超えた境地です。ですから、その説明は不可能です。涅槃・解脱を体験するのだと言って、お釈迦様もそこで終了します。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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6 日前読了時間: 1分
Phala-citta は究極の安らぎ、安穏を感じる
Phala-citta は究極の安らぎ、安穏を感じる Magga-citta 道心の次にphala-citta 果心が生まれます。解脱に達します。最後の心路で、果心は二つか三つ起きて、有分心になります。 修行者には、上位の悟りに挑戦しないで、今までおこなってきた修行をリピートすることが可能です。リピートして経験を強める必要もあります。同じ実践をリピートすると、再び悟りの禅定に入ることができます。預流果に達した修行者が瞑想をリピートすると、再び預流果心が現れるのです。預流果の禅定が現れたということです。そのときは禅定に入っている時間だけ、預流果心が繋がって起こります。しかし、預流道心は生まれません。 Phala-citta 果心には、特別な仕事はありません。Phala-citta は涅槃を対象にします。その心で究極の安らぎ、究極の安穏を感じるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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6月16日読了時間: 1分
magga-citta は一人の修行者に四回しか起こらない
magga-citta は一人の修行者に四回しか起こらない 悟りは四段階です。悟りの各段階で、なくす煩悩がそれぞれ違います。ですから、magga-citta は一人の修行者に四回しか起こらないのです。その四回のmagga-citta も、同一ではありません。預流道心は一回しか起こりません。さらに修行すると一来道心も一回起こります。次の悟りを目指す場合は、不還道心が一回起こります。解脱を完了する修行に入った場合は、阿羅漢道心が一回起こります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p161】
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6月15日読了時間: 1分
magga-citta とは煩悩を根絶する心
magga-citta とは煩悩を根絶する心 名前がmagga-citta なので、四聖諦の苦滅道聖諦ではないかと推測することもできません。解脱に達する瞬間まで、月日をかけて苦滅道を実践してきたのです。Magga-citta 道心のmagga とmagga-sacca 道諦のmagga は同じではありません。 Magga-citta は煩悩を根絶するという仕事をします。違いはそれだけです。Magga-citta の中に四聖諦が心所として入っているというよりは、magga-citta とは煩悩を根絶する心だとした方がよいかもしれません。 ですからmagga-citta 道心は一人の人間に一回しか生まれないのです。一回なくした煩悩を再びなくすということはあり得ません。同じ人を二回も三回も殺すことはあり得ないのと同じです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p160】
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6月14日読了時間: 1分
magga-citta 道心の仕事
magga-citta 道心の仕事 道心には、四聖諦をいっぺんに理解する能力があります。しかし四聖諦は一般人に理解できるように語られたものなので、中身は同一ではありません。 さまざまなことを一つの心で理解する、ということはあり得ない話です。これを説明するために、アビダンマ・テキストは苦労しています。経典に沿って、四聖諦に対する四つのアプローチに合わせているのです。 ① 苦聖諦は理解するものです。② 苦集聖諦はなくすものです。③ 苦滅聖諦は体験するものです。④ 苦滅道聖諦は実践するものです。この四つに合わせてみたとしても、一つの心にすべて起こるのだと言うと、相当な無理が出てきます。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p160】
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6月13日読了時間: 1分
道心も果心も出世間心
道心も果心も出世間心 玄関を開けたら家の中に入っているのですが、本格的に入るためには、たたきの上で汚れを落とさなくてはいけません。吹雪の中で歩くときに必要だったものも脱がなくてはいけません。 聖者の境地(家)に入ったのですから、道心も果心も出世間心なのです。しかし道心には、汚れ(煩悩)を落とすという、やるべき仕事があります。最初の悟りに達する修行者は、有身見、疑、戒禁取という三つの汚れを落とすのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p159】
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6月12日読了時間: 1分
gotrabhū-citta 種姓心はmagga-citta 道心
gotrabhū-citta 種姓心はmagga-citta 道心 解脱に達するという出来事が起こる瞬間の心路があります。まずgotrabhū 種姓という心が生まれます。帽子、オーバー、コート、長靴などを身に着けた人が、吹雪の道を通って家の玄関に入ったとしましょう。瞬時に温かい家の中に入れます。これがgotrabhū-citta 種姓心です。 ドアを開けて、玄関のたたきに入ります。それはmagga-citta 道心なのです。たたきの上でおこなわなくてはいけない仕事があります。帽子、オーバー、コート、長靴などを脱ぐのです。身体についた汚れをそこで落とすのです。次に足を一歩上げれば、家の中です。家に入る瞬間はphala-citta 果心です。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p159】
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6月11日読了時間: 1分
アビダンマは心の流れのセット(心路)を説明する
アビダンマは心の流れのセット(心路)を説明する アビダンマは解脱に達するときの最後の心の流れ(心路)を説明しています。心とは瞬間に現れて瞬間に消えます。心の寿命は一刹那だと説明されています。アビダンマの刹那思考は一般的に理解できるものではありません。ですから、一つの認識が成立するために流れる心のセットを心路と名付けてあります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p159】
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6月10日読了時間: 1分
magga-citta の次にかならずphala-citta が生まれる
magga-citta の次にかならずphala-citta が生まれる ヴィパッサナー実践の最後の段階に入った修行者の心の流れに、gotrabhū-citta 種姓心が現れます。Gotra とは日本語で◯◯ 家というファミリーネームです。修行で徹底的に鍛えられた心が、聖者として生まれようとするときの心であると理解した方が分かりやすいです。人間が生まれることを想像してみましょう。羊水が破れて、陣痛が引き起こす圧力によって赤ちゃんが生まれる準備をします。それをgotrabhū-citta 種姓心に喩えましょう。それから、赤ちゃんが産道に入ります。それを修行者にmagga-citta 道心が生じた状態に喩えましょう。産道から外に出た瞬間から、赤ちゃんが生まれたことになるのです。Magga-citta の次、修行者にphala-citta 果心が生まれます。その瞬間から、解脱者になるのです。解脱者として生まれる道に入ったときの心がmagga-citta です。赤ちゃんの頭が産道から見えるようになると、すぐ生まれます。時間はかかりません。修行者にmag
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6月9日読了時間: 1分
道心(magga-citta)と果心(phala-citta)の違い
道心(magga-citta)と果心(phala-citta)の違い 以上、悟りの過程と心の上達について詳しく説明しました。本来はここで基本アビダンマは終了するべきです。アビダンマとは、一切の現象を極限まで微細に分析して語る方法です。一つの現象である心は、八十九か百二十一種類に分けて説明されています。八十九のグループで考えると出世間心は八種類です。その八種類は、預流道心・預流果心、一来道心・一来果心、不還道心・不還果心、阿羅漢道心・阿羅漢果心です。ここで悟りの心を道心・果心という二つに分けました。必要な解説は『ブッダの実践心理学』第二巻の四章にあります。 道心・果心は出世間心というので、世間の次元を破ったことを意味します。色界・無色界のサマーディも世間の次元に入ります。普通の心(凡夫の心)がどのように次元を破って出世間(解脱)の境地に達するのか、説明する必要があります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p158】
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6月8日読了時間: 1分
原始脳の残りの機能も停止させる
原始脳の残りの機能も停止させる 預流果の悟りに達した修行者は、さらに修行を続けて、原始脳の残りの機能も停止させます。機能を停止させるといっても、脳が死ぬわけではありません。ただ感情を引き起こさないだけです。それによってこの上のない安らぎを感じるので、脳細胞は元気にはたらきます。解脱に達した人の脳は決して衰えることがないのです。 この説明は、私が個人的な好みで、解脱のプロセスと脳の機能を繋げておこなってみた説明にすぎません。まったくピント外れのものになる可能性もあります。なんとなく理解していただければ充分です。実践する修行者にとっては、このような説明は余計なものです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p158】
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6月7日読了時間: 1分
原始脳もそう簡単に負けを認める気はありません
原始脳もそう簡単に負けを認める気はありません このように説明すると、一回の修行で完全なる解脱に達することが可能であるように見えます。しかし原始脳もそう簡単に負けを認める気はありません。ですから完全なる悟りは預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という四つのステージで完成するのです。最初の悟りで、罪を犯すまで激しくなる貪瞋痴の感情の力を失います。自分という魂があるという錯覚もなくなります。しかし自分という実感は残っています。六根に入る対象に対して、好きなもの、嫌いなもの、という区別もあります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
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6月6日読了時間: 1分
七番目の智見清浄で大脳が命の支配権を得る
七番目の智見清浄で大脳が命の支配権を得る 原始脳に寝てもらう経験は、一般常識レベルでは起こり得ません。ですから、智慧のランクは一般常識で理解するのは難しいと思います。無執着の完全な涅槃という経験は、七番目の智見清浄の次に起こることです。七番目の智見清浄とは、大脳に開発できる究極のレベルです。そこで大脳が命の支配権を得るのです。貪瞋痴の衝動で生きて苦難に陥ることは、二度となくなります。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
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6月5日読了時間: 1分
原始脳が寝てしまって、大脳だけが仕事をする
原始脳が寝てしまって、大脳だけが仕事をする 次に、心清浄に入ります。瞑想してサマーディをつくるか、サマーディに近い状態をつくるかです。サマーディに達すると、五蓋が睡眠状態になるのだと説明されています。五蓋の中身も貪瞋痴と同じです。脳で説明するならば、原始脳が寝てしまって、大脳だけが仕事をすることになった状態です。心に感情が湧いてきません。ですから、妄想も現れません。それから気づきの修行を続けると、三番目の見清浄から七番目の智見清浄まで成長していくのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p157】
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6月4日読了時間: 1分
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