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札幌仏教塾
「受・心・法の随観」のあらまし
「受・心・法の随観」のあらまし Vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ もろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。 二番目はvedanāsu 感覚において、vedanānupassī 感覚に沿って、感覚
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12 時間前読了時間: 2分
効果 vineyya loke abhijjhādomanassaṃ
効果 vineyya loke abhijjhādomanassaṃ Vineyya loke abhijjhādomanassaṃ の意味は「世界における貪欲と憂いを除いて住みます」です。このフレーズも解説する必要があります。 身体の動きに気づいて観察すると、その人に他のことを考える余裕はないのです。過去や将来のことを考えて心配したり、妄想にふけって空想の世界に戯れたりする余裕がないのです。 一般人は「いまの瞬間」という現在に生きることはしないのです。何をやっていても、頭はそのやっていることに集中しないで、過去か将来や、妄想などに走るのです。それで欲が生まれたり、怒りが生まれたり、憂い悲しみが生まれたりするのです。いまの瞬間に身体に触れることには、ほとんど欲・怒り・憂いなどは生まれません。例えば、人の掌にダイヤを置いたとしましょう。軽い石を一個、手に置いた感触でしょう。目で見ると、光を反射する物として見えるでしょう。ではそこで、いっぱい妄想・思考を注いでみましょう。「これは本物のダイヤです。二十カラットもあります。二十カラットのダイヤは、
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1 日前読了時間: 3分
気づき satimā
気づき satimā Satimā の意味は「念をそなえ」です。Sati は念と訳するのが慣例です。 私たちはsati を「気づき」と訳します。気づきという語は、sampajāna とsati の間を取っています。 ヴィパッサナー実践をする方々に、瞬間瞬間の感覚を言葉で確認すること、ラベリングすることを推薦しています。それは、「念」ずることです。 歩くときに、足を「上げる、運ぶ、下ろす」とラベリングしながら行なうと、言葉だけ空回りしてしまうこともよくあります。そうなると修行にはなりません。精進することにはなりません。Sampajāno 正知がついてくると、修行なのです。Sati とsampajāna はペアなのです。分かりやすく言えば、足を上げるとき、「上げる」とラベリングしながら上げている足(身体の動き)に気づかなくてはいけないのです。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p46
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2 日前読了時間: 1分
正知 sampajāno
正知 sampajāno Sampajāno の意味は「正知をそなえ」です。その訳では理解できないでしょう。この単語を英訳するとawareness, presence of knowledge になります。しかし複雑に考える必要はないのです。いま何が起こっているのかと、知っていることです。 私たちは日常、ご飯を食べているとき、テレビを観ているのです。またテレビを観ながら料理をつくっているのです。イヤーフォンを耳に差して音楽を聞きながらジョギングするのです。ご飯を食べているか、テレビを見ているか、よく分からなくなります。食べ終わったのに、どれくらい食べたか、何を食べたか、どんな味だったかよく分からないし、その間に見ていた番組の中身も分からない。あれもこれも同時にやろうとするのは、心に落ち着きがないからです。 たくさんのことを同時にやろうとすると、一つもまともにやったことにはならないのです。全て中途半端なのです。ものごとの理解能力がなくなるのです。何も理解せず、何も発見できず、充分に生きてきました、という実感はなく、人は老いて死ぬのです。 お
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3 日前読了時間: 2分
修行ātāpī
修行ātāpī Ātāpī とは「修行する、精進する、苦労する、努力する、頑張る」という意味です。身体を観察することにおいては、修行しなくてはいけない、苦労しなくてはいけない、努力しなくてはいけない、頑張らなくてはいけないのです。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p45
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4 日前読了時間: 1分
観察 kāye kāyānupassī viharati
四種類の気づきのなかで第一は、身体に(kāye)気づくことです。 次にanupassī という単語が出てきます。Passati とは「観る、観察する」という意味です。Passati の接頭辞anu は、観察の仕方を説明します。Anu は「沿う」という意味なので、身体に沿って観察する、という意味になります。パーリ語でgacchati と言えば「行く、歩く」という意味です。Anugacchati と言えば、誰かの後をついて行く・歩くことです。「身体に沿って身体を観察する」という場合も、身体の後をついて観察することになります。 身体というのは、常に動くものです。物のように停止しているのではありません。身体の動きに沿って、どのように動いているのかと観察するのです。 他人の身体の動きを観察すると、他人に怒られることでしょう。訴えられる可能性もあります。他人の身体の動きを観察しても、自分には何の役にも立ちません。ですから自分で自分の身体の動きを観察するのです。 それで「こんなのはできるのか」という疑問が生じます。「できない」ではなく、誰もやっていない
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6 日前読了時間: 2分
ブッダのことば
Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, 比丘たちよ、ここに比丘は、身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。
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6 日前読了時間: 1分
正しく気づいて日常生活を送る
正しく気づいて日常生活を送ることが、良いに決まっているのです。人生で起こる失敗の大半は「気づかなかった」から起こるものです。気づきがないと、運転するときは事故を起こすし、寝ている間に家が火事になることもあります。ですから、気づきが私たちの命を守っているのです。私たちは「気をつけなさい」としょっちゅう叱られる身分です。しかし一度たりとも、「気づきを育てなさい、気づきを実践しなさい」と言われたことはないのです。「ただ気づけばいいのに。わざわざ気づきを育てる必要があるのか」というのは、みんなが思うことでしょう。一般的に考える気づきは、問題を起こさず無事生きることを期待しています。生きることを乗り越えて、解脱に達するべきだという目的はないのです。苦しみを乗り越えて、憂い悲しみをなくして、正理を発見して、安穏たる解脱に達するための「気づき」もあるのです。この経典でその気づきを提示しています。それは四種類です。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p43
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10月4日読了時間: 1分
気づき:世間と仏道の違い
気づき:世間と仏道の違い Cattāro satipaṭṭhānā と説かれているので、気づきは四種類になります。なぜ気づきを明確に四つに制限したのかと説明します。気づきという言葉は、私たちが日常使っている単語の一つです。ですから気づきの意味は、「日常、私たちが考えている気づきではないか」と勘違いする恐れもあります。ほとんどの人々は、それなりの気づきがあって、生きているのです。その気づきについて、正覚者たるブッダがあえて「唯一の道だ」と説く必要はないのです。ですから、四つの気づきとは、みな毎日やっていることではないかと思われたら、困るのです。皆に何かしらの気づきがあることは確かですが、誰一人として悩み苦しみを乗り越えていないのです。愁い悲しみをなくしていないのです。心の安穏を確保して、解脱に達していないのです。ということは、釈尊が提案する気づきと、私たちが日々やっている気づきは、同じものではないのです。註釈書はこのポイントを明確にします。気づき(sati)は日常世界の心では起きません。仏道を実践するときのみ、その心に気づきが起こるのだと註釈する
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10月3日読了時間: 1分
感情が絡んでいる
欲・嫉妬・怒り・憎しみなどの感情が絡んでいるから、心に落ち着きがないのです。心が混乱すると、勉強も仕事も商売も金儲けも平和に生活することもできなくなるのです。金儲けを狙って瞑想することで、自分の心の欲に充分燃料を与えているのです。燃料があるならば、欲はごうごうと燃えるのです。それで精神的に混乱するのです。心が混乱すると、勉強も金儲けも失敗するのです。もとに戻ります。混乱していたから、それを治すために瞑想を始めました。瞑想をしてから、混乱に陥りました。ではまた、混乱を治すために瞑想を始めることでしょう。ブッダの実践には、この悪循環はないのです。涅槃を体験するために実践するのです。涅槃とは、心の煩悩がなくなったところで、心が経験する究極な安穏なのです。もとに戻ることはありません。精神的に落ち着いて、心が感情に振り回されないならば、商売も勉強も人間関係も良くなるのは当たり前の話ですが、それを目指すと、とんでもない悪循環に陥って元の木阿弥になることを憶えておきましょう。ですから仏道を歩む人々は、解脱・涅槃を目指すべきなのです。 アルボムッレ・スマナサーラ
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10月2日読了時間: 1分
道には目的がなければいけない
道には目的がなければいけない そこで次に、サティ(sati)の実践によって「nibbānassa sacchikiriyā 涅槃を体得・体験する」という、達すべき目的を示しているのです。現代人は「瞑想すれば精神的に落ち着きます。集中力が上がります。ストレスがなくなります。それで仕事がはかどります」という気持ちで瞑想に興味をいだきます。仏教の瞑想、ヨガ、他宗教の瞑想、現代人が創りだした瞑想などに挑戦するのです。心のやすらぎを目指すことは悪くないが、次の狙いは問題です。心が落ち着いたならば、よく勉強できる、仕事がはかどる、というところが問題です。単刀直入に言えば、「金が儲かります」ということです。なのにまた、金は全てじゃない、金では幸せは買えない、などとも言う。瞑想しなくても金儲けや商売繁盛などはできると知らないのでしょうか?
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9月28日読了時間: 1分
群盲状態
宗教・哲学の場合は、私たちはこの例えで出てくる群盲状態に陥っているのです。それも正直に、まじめに語る場合だけの話です。誇大妄想で悩んで、また金に目がくらんで、皆に拝まれることを狙って、語る人のことではありません。そのような人々は、詐欺師以外のなんでもありません。この例え話は、ほんのわずかな経験だけに頼って結論に走ることの危険性を示しています。同時に、ものごとを全体的に見るために必要な観察能力が欠けていることも示しています。群盲には視覚能力が欠けていたのです。私たちには観察能力が欠けているのです。大念処経はこの問題を解決して、観察能力を育てる方法を教えているのです。象が見えた瞬間、群盲が繰り広げた全ての議論が消えて平和になるように、私たちに観察能力が身につけば、全ての疑が消えて、心が平和になるのです。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p40
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9月27日読了時間: 1分
生まれつき目が見えない人々
お釈迦様は「群盲象を撫でる」という例えで、この状況を説明します。生まれつき目が見えない人々の前に、象を連れてきて、「象とはどんな生き物かと説明してくれ」と、その人々に頼みます。一人は象の鼻、もう一人は足、もう一人は尾っぽ、もう一人は耳、またもう一人は身体、などを撫でてみる。それから、おのおの自分の意見を言うのです。身体を触った人にとって、象は山のような存在です。尾っぽを触った人には、ホウキのような存在です。足を撫でた人からすれば臼のような存在です。耳を撫でた人は脱穀に使う箕のような存在だと言います。……互いの意見はあまりにも違うので、お互いに議論を始めるのです。喧嘩までするのです。相手に嘘つき呼ばわりされたら、黙っているわけにはいきません。自分は正直に、自分の経験を語っているのですから。結局、象の姿に関して結論に達することなく、議論だけ、喧嘩だけ続いていくのです。では仮に、この人々が触る場所を変えてみたらいかがでしょうか? 足を触った人は尾っぽも触ってみる、また耳も触ってみる、などです。そうなると、このような結果になります。「象とは臼のようでホウ
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9月26日読了時間: 1分
群盲象を撫でる
群盲象を撫でる 世のなかの思想・哲学は、アダムとイヴの神話物語みたいに何の根拠もない妄想だと切り捨てることもできないのです。正直な人は、何かの証拠があって自分の意見を語るのです。また別の人が、それに対立した反対意見を出すのです。そちらにもそれなりに証拠があるのです。その二人の間で「誰が正しいか決めましょう」ということになると、終わりが成り立たない議論の流れが起こるのです。実は、人の意見は認めるわけにはいきませんが、きれいに否定することも難しいのです。そこで人は、疑のままでいるはめになるのです。
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9月25日読了時間: 1分
今日は何曜日ですか
もし人が、今日は何曜日ですか、と明確に知っているぐらい、「生きるとは何か?」という問いに答えを見つけた場合は、一切の疑がたちまち消えてしまうので当然のことです。世のなかでたくさん宗教と哲学が現れたのは、人間に無智があるからです。無智が母親なのです。これからもたくさん、宗教・哲学が現れることでしょう。しかし、いまだに「どんな宗教が正しい宗教でしょうか?」という問いに、答えがないのです。哲学の場合も同じです。議論しても、結論には達しないのです。結果は、時間が無駄に減ってしまう、悩んだり困ったりする、疑が減るどころか強化される、自分の意見にしがみついて他人をけなしたり攻撃したりする、人生は無智のままで終わるのです。お釈迦様は「生きるとは何か」と、客観的にデータを集める方法を選んだのです。その方法は大念処経で説かれています。ですから、四念処を実践すると正理(ñāya)に達するのです。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p38
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9月24日読了時間: 1分
疑は無数の哲学・宗教をつくる
疑は無数の哲学・宗教をつくる まとめてみると宗教と哲学の課題は二つです。 一、私は何ものですか?二、世界とはどんなものですか? この二つについて、たくさんの創造論があります。自然法則という論や唯物論、唯物論に対立してでき上がった唯識論もあるのです。そこに魂論も割り込んでくるのです。科学者が発見するデータからつくりだす、科学的哲学もあります。しかし誰一人として、論争に勝ってもいないし、負けてもいないのです。みな最終結論に達することができなくて、「そうだと思います」程度で止まります。世にある様々な意見をまとめてみると、「みな知らないから議論する」と見えてくるはずです。知っていることなら、議論・異論は成り立たないのです。簡単な例を出しましょう。「今日は何曜日ですか?」、この問いに皆様がたは議論すると思いますか? 異論が成り立つと思いますか? もしかすると誰かが「◯◯ 曜日と日に名前をつけたのは人間の勝手です。日には曜日名をつけられません」と反論するかもしれませんが、それに関係なく、「今日は何曜日ですか?」という問いの答えは決まっているのです。
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9月23日読了時間: 1分
「地球が丸い」
しかし、「地球が丸い」という意見には、異見がありません。最終的な答えに達する方法が、ここにあります。それは、調べることです。証拠を探すことです。データを見つけることです。それを行なったから、お釈迦様は真理を発見したのです。「生きる」ということについての答えを見つけたのです。いままで人類が散々議論してきて、無数の意見をつくって、どちらが正しいのか分からなくて、悩んでいたのです。どちらが正しいと分からない状態は、「疑」です。「この意見が有力」と言えても、正しいとは言えないのです。この場合も、疑は晴れていないのです。お釈迦様は真理を発見した瞬間、一切の議論から心が解放されたのです。それは、疑が消えた状態です。『Mahāsatipaṭṭhānasutta 大念処経』の実践で、私たちにもこの、疑が消えることを経験できるのです。疑が消えたとは、正理(ñāya)に達したことなのです。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p21
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9月22日読了時間: 1分
正理(ñāya)で疑が消える
正理(ñāya)で疑が消える ブッダにより説かれた実践方法で「全ての疑が消える」と言われています。現代的な思考では、そんなことはあり得ないと思われるでしょう。現代人は一つの問題にいくつかの解説方法を見出し、たくさんの意見をつくります。それから、自分たちの意見を立証しようと必死で議論するのです。議論することで、間違った意見が破れて、正しい意見が残るだろうと推測するのです。しかし議論だけでつくられた正しい唯一の意見というものは、この世のなかに一つも存在しないのです。実験をしたり証拠を探したりして、最終的な考え・結論に至ったケースならばあります。これについて、私がいつでも出す簡単な例は、「地球が丸い」という結論です。これは聖書を信じる人々と、聖書を信じない人々が議論の末に達した結論ではないのです。聖書賛成派はいまだに負けを認めていません。聖書反対派も「聖書は間違っている」という断言的な意見には達していないのです。いまだに議論中なのです。この状況は、お釈迦様の時代も同じことでした。みな議論ばかり。魂はあるかないか、あるならばその魂はどのようなものか、と
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9月21日読了時間: 2分
勝手にしゃべっています
そうやってみな、「正理(ñāya)」だと思うことを各々で勝手にしゃべっています。当然、みな正しいとは思えません。しかし誰が正しい理論を語っているのかも分からないのです。存在に対する真理を神話的なストーリーで解説できるか、ということも問題です。それでも、人は真理を知らなくてはいけないのです。それならば、自分で探してみるより他に方法はないのです。『Mahāsatipaṭṭhānasutta 大念処経』の実践方法を行なってみると、生命の真理をおのずから発見することができるのです。生命に関する正理(ñāya)を発見する方法が、『大念処経』の実践なのです。 アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p35
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9月20日読了時間: 1分
違う「正理(ñāya)」
ヒンドゥー教ならば、全く違う「正理(ñāya)」を主張するでしょう。科学者も違う「正理(ñāya)」を考えているでしょう。「私は何ものなのか?」という問いに、科学者は物質だけを見て答えを出します。物質を色々組み立てたところで生命のもとになるようなアミノ酸ができた、と推測するのです。そこでいまも生き続けている原始的な生命体を観察して、その生命体からどのようにいまの複雑で多様な生命体が現れたかというストーリーを組み立てて語っている。つまり、アミノ酸と遺伝の物語が科学者の「正理(ñāya)」になっているのです。
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9月19日読了時間: 1分
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