top of page
検索

063 執着して道具の奴隷になってしまう

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年1月2日
  • 読了時間: 1分

「あれもこれもありがたいと思って、感謝の気持ちで生活するべきだ」という話さえも、あべこべです。「毎日おいしいご飯をいただいて、ありがとうございます。感謝いたします」とお祈りしながらご飯を食べる人も、なんのお祈りもせずにご飯を食べる人も、同じように老います。死にます。結局は、ありがたくないのです。人は「命を支えてくれるから、ありがたい」と思って、財産に、権力に、家族に、仲間に、自分自身に、徹底的に執着して生きています。ありがたいものを得るために、得たものを守るために、苦労します。罪を犯します。お金のため、財産のために、生きる奴隷になってしまうのです。財産や家族などは、生きることを支えてくれるはずの道具なのに、道具に支配される生き方になるのです。見事なあべこべです。『一分で読むブッダの教え』第2章 心の正体を知れば、人は成長することができる 《心の癖》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【あべこべ感覚 役立つ初期仏教法話7」(サンガ新 022, 2008年) p166】

 
 
 

最新記事

すべて表示
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 
それなりの安らぎ

それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではな

 
 
 
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 

コメント


bottom of page