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nāma とrūpa の流れに過ぎない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月18日
  • 読了時間: 1分

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、他の何者でもなくnāma とrūpa の流れに過ぎないのです」 これは、智慧がワンステップ進んだことを意味します。これだけの智慧が現れると、今まで悩んできた見解などが消えているはずです。神がいるか、如来がいるか、私がいるか、私は何なのか、等々の見解はきれいさっぱり消えているはずです。自分が修行で発見したのは、物質と感覚の流れだけであり、見解とは妄想と思考の産物であると知るのです。客観的に観察すると、見解などは一つも成り立たないのです。しかし人は、妄想・概念・見解の網に絡まって、苦労しています。人々と喧嘩します。自分の見解が正しいという前提があるので、自我を張るのです。こういう状況なので、心は重くて苦しく、生きることも苦しいのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p82】

 
 
 

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