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070 どうにもならない反応で生きている

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年1月9日
  • 読了時間: 1分

 意志は情報に触れることによって必然的に起こるものです。体にデータが触れると、否応なく意志が生まれます。その意志は自分では管理できません。そこで、「他の意志によって生かされている」と思ってしまうのです。たとえば、美しい花を見ると気分が良くなります。お花見に行くと、立派な男性たちが、だらしのない格好で酔っ払って、大勢の人々の前でほとんど裸になって歌ったり、踊ったりしていることがありますね。あくる日、本人に「恥ずかしくなかったのか」と聞いても、「そう言ったって、どうしようもないんだよ」という答えが返ってきます。確かにどうにもならないのです。人間は、データが体に触れると意志が生まれて、猿のように反応して動いてしまうものだからです。人間は、ほとんどの場合、この「どうにもならない」ということで動いているのです。食べ過ぎも同じです。後で自分を責めても、食べているときはどうにもなりません。後悔しますが、やめられません。『一分で読むブッダの教え』第2章 心の正体を知れば、人は成長することができる 《心の癖》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【智慧は人生の針盤 人がめざすべき幸福の話」 (お釈迦さまが教えたこ8,2009年) p42】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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