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092 自分を守る言葉

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年1月31日
  • 読了時間: 1分

 自分の中にある無智というものが自分の敵なのです。「自分が自分を敵にまわしている」のです。「私が私の敵である」「己の敵は己である」というのはすごい言葉です。認めたくはないと思われるでしょうが、これは自分を守ってくれるすごく格好いい言葉です。私たちは「敵は他人だ」と思っているでしょう。そう考えること自体、もう無智にやられています。自分の不幸に実は他の人はなんの関係もないのです。たとえば、他人が私に怒鳴ったとしても、それだけなら怒った相手が疲れるだけでしょう。怒鳴られたからといって、どうして私まで怒る必要があるのですか? そこでもし自分がムカついた ら、それは自分の責任になります。人の言葉に反応して怒って怒鳴り返したら、それは自分が自分を敵にまわしたということなのです。それは自分の責任です。ぜひ、「己の敵は己である」ということを覚えておいてください。「私が私の敵である」と忘れないでください。そうしてこの言葉を自分を守る武器にしてください。『一分で読むブッダの教え』第2章 心の正体を知れば、人は成長することができる 《感情と理性》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【バカの理由 役立つ初期仏教法話12 (サンガ新書045) p104】

 
 
 

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