top of page
検索

290 「死にたい」も「死にたくない」も両方捨てる

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年10月14日
  • 読了時間: 1分

 執着とは、「死はヤバい」と思うことなのです。「死んでは駄目だ」という、みんなに与えられているバカな指令なのです。「死んでは駄目だ」とは、どういう意味でしょうか? 意味がない指令でしょう。でも、すべての生命は死にたくない。「なぜ?」と聞いてもわかりません。死にたくないという気持ちもバカらしいし、死にたいという気持ちもバカらしい、両方、愚かな気持ちです。「死にたい」も「死にたくない」も両方捨てて、超越したところで生きる。生と死は一つのコインである、と理解するのです。コインを取ったら、裏と表、両方ありますね。それは仕方がないことです。「私は表のほうは大嫌い」というのは成り立ちません。一万円札をもらったけれど表の絵柄はあまり気に入らない、裏のデザインがいいから裏だけちょうだい、ということはできないでしょう。それと同様に、「死は嫌だ」と言っている場合ではないのです。生きていきたいと思っているのは愚かな考えで、死にたいと思うことも愚かな考えです。正解は「放っておけ」なのです。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第5章 老病死に向き合い、人生を豊かにする《死》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【僧侶が語る死の正体 (2016年) p291】

 
 
 

最新記事

すべて表示
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる

現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる しかし見清浄に達したら、これらの悩みは減ります。これらの悩みをもう少々、観てください。何か問題があります。それは「自我」が絡んでいることです。すべての悩みに「私は」という主語があります。「私がいない」という想定で実践しなくてはいけないのです。私がいない、という想定で実践できるようになってから初めて、現象がnāma とrūpa に分けて観えるよう

 
 
 
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 
それなりの安らぎ

それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではな

 
 
 

コメント


bottom of page