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296 臓器移植は何ら問題なし

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年10月20日
  • 読了時間: 1分

 「臓器を移植したら、その臓器の元の持ち主の心・精神の影響を受ける」などとくだらないことを言う人もいますが、それはただの妄想です。目が見えなくなれば他の人の角膜を移植して見えるようになっても構いませんし、心臓が動かなくなったら、他の人の心臓をもらって使っても構いません。日本では自分の臓器や亡くなった家族の身体の組織を、ぜんぜん提供しません。 提供にはすごく反対します。でも、臓器移植に関わるこのような拒否感情には、何の根拠もありません。人が亡くなったら、取れるものは何でも片っ端から取って使ってもらったほうがすばらしいことだと思います。ただの部品ですから。「これは私の身体の一部ですから、あげませんよ」などというのは、とても原始的な、非知識的な考え方です。人が死んでしまったら、その身体にはもう命色はありませんし、心もありませんし、ただの物体です。物体を見て、「おじいさんだ」「お母さんだ」などと言っても、それはただ似ているだけです。それなら土で作っても一緒ですし、写真を見ても同じことです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第5章 老病死に向き合い、人生を豊かにする《死》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第一巻 物質の分析 p303】

 
 
 

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