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297 死を悲しむのは格好が悪い

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年10月21日
  • 読了時間: 1分

 自分の子供、親が亡くなったと悲しむとき、「自分は相変わらず元気だ」という前提があるのです。自分はぴくりともしない川岸にいて、流される木の葉を哀れむような傲慢さです。しかし、そんな保証がどこにあるのでしょうか? 人間なんて、いつ死んでも不思議はありませんよ。だから、人が死んだと悲しむことは、本当はすごく格好の悪いことなのです。それなのに、周りは「この人は優しい人だ」と褒めたりもする。本来、人の死に目に泣くなんて、褒められるようなことではありません。それは、無智で、恐ろしいことなのですよ。覚った人は泣きません。人が死んでも平静なことは、残酷なことでも冷酷なことでもありません。覚った人には「私だけ違う」という偏見まみれの暗黙の了解がないのです。自分も無常、自分も刻々と死につつあるのだから、他人の死に動じないのは当然の反応なのです。泣けるはずがないのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第5章 老病死に向き合い、人生を豊かにする《死》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【無常の見方 「聖なる真理」と「私」の幸福 (お釈迦さまが教えたこと 1, 2006年) p89】

 
 
 

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「因果法則」は存在そのものの研究成果

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とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

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