top of page
検索

080 「思う」はあてにならない感情の流れ

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年1月19日
  • 読了時間: 1分

 「我は思う。ゆえに我あり」ではないのです。真理は「認識によって『我あり』とい幻覚が生じる」ということです。「思う」とはどういうことでしょうか。瞬間瞬間、無数のことを思うのです。子供のときと若いときでは、思うことはまったく違います。おとなしい人が犯罪者になったり、犯罪的な思考をもっている人が自分の思考を改めたりもします。一瞬先、我々は何を思うのか、誰も知らないのです。「思う」はあてにならない、瞬時に変化する。予測もできない感情の流れなのです。『一分で読むブッダの教え』第2章 心の正体を知れば、人は成長することができる 《心の癖》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【幻想を超えて 夢枕氏との共著 (2010年) p171】

 
 
 

最新記事

すべて表示
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 
それなりの安らぎ

それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではな

 
 
 
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 

コメント


bottom of page