top of page
検索

080 「思う」はあてにならない感情の流れ

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年1月19日
  • 読了時間: 1分

 「我は思う。ゆえに我あり」ではないのです。真理は「認識によって『我あり』とい幻覚が生じる」ということです。「思う」とはどういうことでしょうか。瞬間瞬間、無数のことを思うのです。子供のときと若いときでは、思うことはまったく違います。おとなしい人が犯罪者になったり、犯罪的な思考をもっている人が自分の思考を改めたりもします。一瞬先、我々は何を思うのか、誰も知らないのです。「思う」はあてにならない、瞬時に変化する。予測もできない感情の流れなのです。『一分で読むブッダの教え』第2章 心の正体を知れば、人は成長することができる 《心の癖》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【幻想を超えて 夢枕氏との共著 (2010年) p171】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page