top of page
検索

142 しゃべらないのは美徳

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年2月26日
  • 読了時間: 1分

 仏教を実践する人は、「嘘をつかないぞ。語るなら真実を語るぞ」と、がんばるのです。真実を語ろうと思ったら、口は結構静かになりますよ。嘘を言う人はいくらでも喋れます、なにせ嘘ですから。でも真実というのは、喋ることはそんなにたくさんないのです。それが分かると、結構静かになります。口が静かになればなるほど、ストレスはなくなります。喋ることがないのですから、「これはこれ。あれはあれ」と言って、それで終わり。ということは、心はずーっと落ち着いているのです。だから仏教の世界では、「あまり喋らないのは、大変な美徳だ」と言います。「真実しか喋らないぞ」と決めると、人間にとって真実はそんなにたくさんないと分かるのです。だから頭の中が静かになります。そうすると、大事な話ならば、サーッと頭の中に入るようになるのです。sammā-vācā正語(しょうご)は、まず、「嘘を言ってはいけない」ということです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第3章 社会で成功するために《コミュニケーション》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第三巻 心所の分析 p196】

 
 
 

最新記事

すべて表示
観察の汚れ:③ 喜pīti

観察の汚れ:③ 喜pīti  修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒

 
 
 
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 

コメント


bottom of page