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「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月16日
  • 読了時間: 2分

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上げる、下げる、足を上げる、運ぶ、下ろす、などを実況しても、「私は手を上げています、下げています。私は足を上げています、運んでいます、下ろしています」というような気持ちです。「私」という言葉を使わなくても、その気持ちが入っているのです。または、「私の手、私の足」という気持ちがあるのです。修行者は「私の身体の動き」を実況しています。そのように、「私」という気持ちが入り込んでいるときは、修行自体がそれほど面白くありません。苦しく感じます。身体の痛みに、痒みに、悩みます。そして、痛みなどをなくす方法を模索します。それは初期段階です。集中力が現れてくると、痛み・痒みなどに困ったりはしません。変えようともしません。そのまま実況中継で確認してみるようになります。いくらか「私」という気持ちが薄くなったのです。それで「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察した方がやりやすいと発見します。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p81】

 
 
 

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