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nāma とrūpa を区別して発見する

  • sapporobukkyoujuku
  • 21 分前
  • 読了時間: 1分

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です。それは動いています。動くときはかならず感覚が必要なのです。「物質の中に感覚の流れが入り込んでいるから、動きが成り立っているのだ」と発見します。今まで大雑把に「私・自分」という気持ちでいたのですが、それが変わります。「身体という物体があります」「その中に感覚が流れています」、このように二つに分かれて観えてくるのです。専門用語を使うならば、nāma とrūpa を区別して発見する能力が生じた、という段階です。ある程度の智慧が現れているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p81】

 
 
 

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