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149 居心地が悪くても優れた人々と付き合う

  • sapporobukkyoujuku
  • 3月5日
  • 読了時間: 2分

 「自分探し」。自分がなくなったとでも言うのでしょうか。バカバカしい言葉です。鏡を見たらいるでしょう。かっこ悪い、ダサい、性格の悪い自分が。探すというのはどういうことでしょう。あれは本性に合っている人が見つからないと「私は何者か」と思うだけの気分なのです。これを大げさにアイデンティティなどと言っているだけです。本性=アイデンティティです。これは仲間がいないとわからないのです。人格を成長させたいと思うなら、智慧を開発したいと思うなら、善い人間になりたいと思うなら、たとえ居心地が悪くても優れた人々と付き合うことです。仲間とは合致していますから、どうせ居心地は抜群です。性格が合います。しかし、それ以上は止めておいてください。善い人間になりたいと思うならば、優れた人格者と一緒になってください。しかし居心地が悪いのです。自分の性格に合わないのです。合わなくても自分の悪い本性がその人の影響で壊れていきます。ですからアイデンティティは探すのではなくて破る、壊すべきものなのです。しかしながら、性格が合わない人と付き合うことはとうぜん苦痛なので、誰もが嫌がります。「ああ、あの人とはもう話したくない、性格が合わないから、嫌ですね」などと思ってしまいます。ですから、いくら学んでも智慧が現れないのです。本性の仲間と致していますからね。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第3章 社会で成功するために《コミュニケーション》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【忘れる練習・記憶のコツ 役立つ初期仏教法話14 (サンガ新書 2013年) p196】

 
 
 

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