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まぁどこからでもいいから

  • sapporobukkyoujuku
  • 4月4日
  • 読了時間: 1分

誰かが虫垂炎に罹って手術を受けようとしている。主任の医者が自分の弟子に手術を任せたとします。先生は弟子に向かって、「まぁどこからでもいいから切ってよ」とは言わないでしょう。きちんとメスを入れる場所を決めてあって、そこをまた何cm切るかと厳密に決めてある。「どこから切っても いずれ虫垂に届きます」ということは、あまり意味がないのです。そういうわけで方法論としては、どうしても「一つの道 ekāyana」になるのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016、p.26】

 
 
 

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