top of page
検索

155 自由と人間関係

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年4月3日
  • 読了時間: 1分

 「自由」という、変であやしい単語を我々はつくり、「皆と仲良く、自由に生きてみようではないか」などと、平気で言います。 もし、本当に自由ならば、誰にも迷惑をかけずに、一人で生活をしているでしょう。そういう人々のことを、人は「あやしい人」「暗い人」だと言ったりするのです。自由を獲得しようとする人のことを「暗い」、「あの人のことはあまりよくわからない」などと、いろいろなことを言うのです。こういった人々は、自由というものがまるでわかっていない、ということです。 俗世間で理想的な生き方だと思われているのは、多くの人々と関係を結び、知り合いがたくさんできる生き方です。しかし、これは本当にひどい依存です。この生き方には自由がありません。一人の友達ができただけでも、ある程度自由がなくなるのに、百人もいれば、自由でいられるわけがありません。お正月が近づいてくると、年賀状を出さなくてはいけません。その相手が百人も二百人もいたら、どうなるのでしょうか。 『一分で読むブッダの教え』第3章 人生の悩みは、仏教で解決する《人間関係》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【自立への道 ブッダはひとりだちを応援します (お釈迦さまが教えたこ 6,2008年) p167】

 
 
 

最新記事

すべて表示
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 
それなりの安らぎ

それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではな

 
 
 
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 

コメント


bottom of page