top of page
検索

174 子供に先立たれたら、一番の供養は善行

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年4月22日
  • 読了時間: 2分

 初期仏教では、日本の仏教と違って、遺族が自分で立派な人間になって、しっかりと人々を助けて生きなければ供養にならないのです。ですから、子供に先立たれ、死んだその子をすごく心配に思うなら、人々を助けたり社会に貢献したりして善いことをして生きること。そうすればその衝動になったのは我が子の死ですから、子供の供養にもなるという考えです。 一人ひとりが独立している生命ですから、子供は子供の業を持っているし、親は親の業を持っています。子供に長寿になる業がなかったり、親のほうに子に老後の面倒を見てもらって、この世を去る業がなかったら、子供に先に死なれるのです。納得したくない話かもしれませんが、それが仏教の業です。要するに、親しい人に死なれたところで、泣き崩れても意味がない、ということです。何ができるかというと、たくさん善行為をして、亡くなられた人に廻向(えこう)する。それで自分もたくさん善行為をするから、自分も幸福になる。悪業のせいで悲しむはめになったならば、善行為をしてしまえばよいということです。『一分で読むブッダの教え』第3章 人生の悩みは、仏教で解決する《子育てと親孝行》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【いまここに生きる智慧―シスターが長老に聞きたかったこと 鈴木秀子 氏との共著 (2007年) p141】

 
 
 

最新記事

すべて表示
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 
それなりの安らぎ

それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではな

 
 
 
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 

コメント


bottom of page