top of page
検索

186 備えなければ憂いなし

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年6月26日
  • 読了時間: 1分

 仏教徒の生き方は、「備えなければ憂いなし」です。古い経典にこんな話があります。在家の人が「雨が降っても、私は大丈夫です」と言うと、ブッダは「雨が降ったら、どうぞ勝手に降ればよい」と語りました。これは、在家の生き方と仏教徒の生き方の違いを表しています。在家の生き方は、何かのために準備しておこう、〈備えあれば憂いなし〉というものです。それは「構え」ていることであり、現実と「闘おう」としている姿です。本当は、準備は要らないのです。構えも要りません。すなわち、現実と闘わないからです。「何があっても、何が起こっても大丈夫」というのが、最高の生き方です。どんなに準備をしても、完璧な構えをしたとしても、万全ということはありません。この世界は、何が起きるかわかりません。現実と闘おうとしたら、勝つかもしれないが、負けることもあります。しかし闘わなければ、勝ちもなければ負けもありません。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第4章 幸福に生きるための秘訣《正しい生き方》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【スマナサーラ長老の仏教塾(2016年) p160】

 
 
 

最新記事

すべて表示
見清浄の成長

見清浄の成長 最初に現れる見清浄は、それほど強くありません。修行を止めたらすべて忘れてしまう可能性もあります。 見清浄を薄いままで放っておいて修行しても、次のステップに進めません。Nāma とrūpa の分離智が現れてから、その智慧に基づいて次の実践に進む必要があります。普通の実況中継で構わないのですが、「足を上げます」と実況するときは、足というrūpa の動きと、感覚変化というnāma の動きに

 
 
 
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる

現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる しかし見清浄に達したら、これらの悩みは減ります。これらの悩みをもう少々、観てください。何か問題があります。それは「自我」が絡んでいることです。すべての悩みに「私は」という主語があります。「私がいない」という想定で実践しなくてはいけないのです。私がいない、という想定で実践できるようになってから初めて、現象がnāma とrūpa に分けて観えるよう

 
 
 
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 

コメント


bottom of page