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193 不完全であると認めると楽

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年7月3日
  • 読了時間: 1分

 人間が不完全であると認めないということは、病気です。自分が不完全だとわかり、人生は不完全だとわかると、ものすごく楽です。しゃべることでも、別に不完全だから仕方がないでしょう、と思えれば、ああ、あんなこと言ってまずいなあとか、気をもむ必要はありません。「いいんじゃないですか、それで」と気楽にいられます。不完全だと思ったら、すごく気楽になります。自分のやったことの間違いを誰かが教えてくれても、ありがたくなるだけ。「あ、そうですか、じゃあこれを直しましょう」ということになるだけ。不完全を認めない人は、人が自分のことを批判すると、ずーっと硬くなっちゃって、落ち込んでプライドが傷ついて大変なのです。実際は、何一つ完全にできるわけではありません。不完全だからこそ学ぶ余地があるのです。だから、「わからないことは多い。知らないことは多い。何やっても、うまくいかないことが多い」ということを、ポジティブに「そんなの当たり前だ」と思える。それが普通であると観えたところで、ポジティブに成長できるのです。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第4章 幸福に生きるための秘訣《正しい生き方》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【浄心への道順 瞑想と覚りをめぐる初期仏教長老と精神科医の対話 p134】

 
 
 

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「因果法則」は存在そのものの研究成果

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