top of page
検索

199 認識、知識は当てにならない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年7月9日
  • 読了時間: 1分

 我々が一番気をつけなければいけないのは、我々の認識、知識です。私たちの知識は真っ赤な嘘です。「人に殴られて痛い」というのは、痛いのだから嘘ではありません。しかし、それについて頭の中に出てくることは、ぜんぶ嘘なのです。「人に殴られて痛かった。まあ、痛かった」。それで終わるなら正しい。でも、「この人は私に恨みを持っているのだ」とか、「この人は精神的な病気だ」とか、「私はなんて不幸な人間か。今日はついてない。朝から嫌な目にいっぱい遭って、その上、殴られた」と、いろいろなことを頭で考えるでしょう。それはすべて根拠のない、真っ赤な嘘なのです。人間が思う存分、幻覚をつくって、それで生きている。「あいつはいきなり私を殴って、私にどんな恨みがあったのだろうか。私もいつかあいつに仕返ししてやらないといけない。どうすればいいだろうか?」などと、心でいろいろ考えることは、ぜんぶ、外の世界と何の関係もない、自分だけの幻覚妄想です。ですから、人間の知識も、人間の自由な認識も、まったく当てにならないものなのです。ですから人間は、しっかりとした智慧を得なければいけないのです。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第4章 幸福に生きるための秘訣《人間の真実》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学第四巻2008年 p208】

 
 
 

最新記事

すべて表示
見清浄の成長

見清浄の成長 最初に現れる見清浄は、それほど強くありません。修行を止めたらすべて忘れてしまう可能性もあります。 見清浄を薄いままで放っておいて修行しても、次のステップに進めません。Nāma とrūpa の分離智が現れてから、その智慧に基づいて次の実践に進む必要があります。普通の実況中継で構わないのですが、「足を上げます」と実況するときは、足というrūpa の動きと、感覚変化というnāma の動きに

 
 
 
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる

現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる しかし見清浄に達したら、これらの悩みは減ります。これらの悩みをもう少々、観てください。何か問題があります。それは「自我」が絡んでいることです。すべての悩みに「私は」という主語があります。「私がいない」という想定で実践しなくてはいけないのです。私がいない、という想定で実践できるようになってから初めて、現象がnāma とrūpa に分けて観えるよう

 
 
 
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 

コメント


bottom of page