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212 無能な心は体を丁寧に使えない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年6月7日
  • 読了時間: 1分

 道具を丁寧に正しく使うと良い結果になるのは当然ですが、無理に、強引に使用すると、道具も壊れるし期待する結果にもなりません。正しい職人だったら、道具を丁寧に扱います。それで立派な仕事をするのです。道具も傷みません。だから一人前の職人が使う道具はみな立派でしょう。包丁一つにしても、台所の包丁とはわけが違います。腕のいい職人のたとえのように、有能であればあるほど道具を大事に大切に使うはずですが、心は無智です。能力がないのです。だから、体という道具をむちゃくちゃに使うのです。体はいつでも弱いものです。心が期待するほどの刺激を与え続けることは、不可能です。だから、かなり慎重に扱わないといけません。体は面白いほど弱いのです。ちょっと階段を滑っただけでも天国行きです。ちょっと食べ物を間違っただけでも大変です。こんなに弱くて、ほんのちょっとしたことで壊れて死んでしまうような体ですから、丁寧に扱うべきですが、心はそれを知りません。『一分で読むブッダの教え』第4章 命を理解し、老病死を恐れずに生きる《心と体》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダはなぜ心を重視するのか 心は「幸福」「不幸」のクリエイター (お釈さまが教えたこと 7, 2009年) p101】

 
 
 

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