top of page
検索

227 嘘をついてはならない理由

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年6月22日
  • 読了時間: 1分

 人を騙してでも、欺いてでも、インチキ詐欺や偽善をはたらいてでも、生きていかなくてはいけないのでしょうか。他人の命より、自分の命に価値があるのでしょうか。もし騙してでも、欺いてでも、詐欺をはたらいてでも、生きる価値があると証明できるならば、自分の命には他人の命より価値があると証明できるならば、なんとしてでも生きてみたほうがよいのです。しかし事実は違います。誰の命も同格です。要するに皆、平等なのです。その上、他人の助け、他人の協力がなければ、自分の命は瞬間ですらもちません。他人に助けられて、やっと命をつないでいる身分である私に、他人を騙す権利はまったくないのです。ですから嘘をついて人を騙すことは存在の根本的な法則に違反する行為です。生命に生きる権利は平等にあるから、生命が互いに協力し合って命をつないでいるから、生命同士で信頼関係があったほうが、幸福に生きられます。だから嘘をついてはならないのです。『一分で読むブッダの教え』第4章 命を理解し、老病死を恐れずに生きる《命を理解する》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの質問箱―仏教まるごとQA(サンガ新書046、2011年) p40】

 
 
 

最新記事

すべて表示
それなりの安らぎ

それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではな

 
 
 
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 

コメント


bottom of page