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231 高慢があると、慈悲は実行できない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年8月10日
  • 読了時間: 1分

 慈悲を実行しようとする人は、高慢があると、実行できなくなります。自分が何者でもない場合は、いつでも人のことを親切に考えることができます。人にやってあげなくてはいけないことを、いとも簡単にできるのは、自我がない人なのです。「自分は偉い」と思ったり、「自分はこういう者だ」と肩書で考えるようになったりしたら、自分が自由に行動できなくなる。反対に、「自分は何者でもないのだ。何の立場もないのだ」という状態でいると、人のためになることは何でもできます。無恚思惟(むにしいAbyāpāda-saṅkappa)は、そういう方向で考えることなのです。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第4章 幸福に生きるための秘訣《慈しみ》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第六巻 縁起の分析p124】

 
 
 

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