top of page
検索

232 慈悲とは幸せになりたい気持ち

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年8月11日
  • 読了時間: 1分

 慈悲とは「私は幸せになりたい」という気持ちから始まるのです。もちろん、各生命がそれぞれ幸せになりたいと思っているのですが、それはすぐに実感としてピンとはきません。ですから、「私は幸せになりたい」という「私は」のところをまず確定して、間違わないようにと、心に言い聞かせてあげるのです。「私は幸せになりたい」というのは、エゴイズムでもわがままでも何でもなく、事実なのです。まったくごまかしをしないで、正直に、素直に「幸せになりたい」と、心に言うのです。とことん素直になるのです。「あなた、自分のことしか考えないのね」というような話ではありません。生きていると、いろいろなことをするでしょう? そのときに「これって私の幸せになるだろうか?」と考えたほうがいいのです。ポイントは「私は幸せでありますように」というフレーズです。つまり、「私は幸せですか?」、あるいは「こんなことをやって、私は幸せになる?」ということを常に意識することから、慈悲の瞑想が始まるということです。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第4章 幸福に生きるための秘訣《慈しみ》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【慈悲の瞑想 (フルバージョン〕 人生を開花させる慈しみ p92】

 
 
 

最新記事

すべて表示
見清浄の成長

見清浄の成長 最初に現れる見清浄は、それほど強くありません。修行を止めたらすべて忘れてしまう可能性もあります。 見清浄を薄いままで放っておいて修行しても、次のステップに進めません。Nāma とrūpa の分離智が現れてから、その智慧に基づいて次の実践に進む必要があります。普通の実況中継で構わないのですが、「足を上げます」と実況するときは、足というrūpa の動きと、感覚変化というnāma の動きに

 
 
 
現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる

現象がnāma とrūpa に分けて観えるようになる しかし見清浄に達したら、これらの悩みは減ります。これらの悩みをもう少々、観てください。何か問題があります。それは「自我」が絡んでいることです。すべての悩みに「私は」という主語があります。「私がいない」という想定で実践しなくてはいけないのです。私がいない、という想定で実践できるようになってから初めて、現象がnāma とrūpa に分けて観えるよう

 
 
 
修行者たちの悩み

修行者たちの悩み ここでもう一度、修行者たちの悩みを考えてみた方が有益だと思います。周りがうるさくて集中できません。一緒に座っている人の鼻息が気になってしまいました。足が痛くて長く座れません。座る瞑想をすると、かならず眠気が襲ってきます。もう少々涼しいところであるならば、気持ちよく修行できると思います。床に座るよりは椅子に座った方が楽だと思います。妄想の流れが切れません。夢を見ているような感じで妄

 
 
 

コメント


bottom of page