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235 生命は平等

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年8月14日
  • 読了時間: 1分

 一般的に「人間には魂はあるけど、動物にはないのではないか」とか「人間を殺してはいけないけど、動物を殺すことは構わないではないか」などという考え方があります。仏教では、そのような立場はありません。「人間に魂がある、動物にはない」ともし言うならば、人間のどこに魂があるか、どれが魂かということをまず証明しなければなりませんし、動物にそれがないという証拠も必要です。しかし、そんな証拠はどこにもありませんから、仏教ではそんなことは言わないのです。その代わり、「生命と生命でないは何か?」ということは、外の世界を認識するかしないかを調べるだけで明らかになりますから、はっきり分別できます。仏教はその立場で生命を区別していますから、「生命はみんな平等だ」と理解しています。「虫でも、人間でも、微生物でも、外の世界を認識していれば、それはみんな立派な生命です」と受け取れます。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第4章 幸福に生きるための秘訣《慈しみ》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第一巻 物質の分析 p205】

 
 
 

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