top of page
検索

245 「生」とは誕生ではない

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年7月10日
  • 読了時間: 2分

 誕生は「生まれ」であるということは、誰でもすぐにわかるでしょう。しかし、「生」はこれで終わりません。実際には、ちゃんと誕生した瞬間から、もう人生は絶えず〝生まれつつ〟です。身体と環境になにも変化がなく止まっているなら、それに慣れてしまって、落ち着くことができます。しかし身体は瞬間、瞬間、変化していきますから、なかなか慣れません。成長すると同時に、今までやってきたことをやめて、新しいことをやらなければいけないのです。それができるかできないかも、わかりません。新しい ことができても、苦しいです。もし新しいことができなくなったら、何倍も苦しみます。 生きることさえ嫌になります。そのような身体の変化に加えて、我々の生きている環境もつねに変わっていきます。それにも慣れなくてはなりません。  ですから、「生」といえば誕生のことのみだと思ってはなりません。つねに「生」があるのです。たとえば、家族の誰かが病気になったとしましょう。それまでは家の中で誰も病気ではありませんでした。つまり、新しい状況が「生まれた」ことになります。すると、それを家族は「嫌だ」と思ってしまいます。生まれた状況を「苦しい」と思います。もし、その病気が治ったなら、そのときにまた新しい状況が生まれたことになります。悪いことがなくなってよいことが生まれたから、今度は「楽しい」と思います。人生の中では、次から次へとよいことが生まれるわけではありません。ほとんどの場合、生まれるのは、悪いことです。何より、年を取るということも、絶えず新しいことが生まれるという意味です。「老いることは楽しい」と思う人はいません。『一分で読むブッダの教え』第4章 命を理解し、老病死を恐れずに生きる《老いと死》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【あべこべ感覚 役立つ初期仏教法話7」(サンガ新 022, 2008年) p128】

 
 
 

最新記事

すべて表示
それなりの安らぎ

それなりの安らぎ見解が消えたら、心は穏やかになります。楽になります。安らぎを感じます。解放された気分になります。 このとき、「こんな安らぎは初めてです」と、修行者が驚いて感動することでしょう。しかしこれは危険です。まだ解脱に達していません。智慧を完成していないのです。それを修行者に教えてあげなければなりませんから、指導者のアドヴァイスは欠かせません。この場合は、修行者は最終的な解脱に達したのではな

 
 
 
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 

コメント


bottom of page