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250 お金持ちでも、ほどほどに

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年8月29日
  • 読了時間: 2分

 贅沢するのは別に悪いというわけではないのですが、あまりにも贅沢しすぎて生きてはいけないのです。徳がどんどん消費されてしまうのです。徳がなくなって惨めな状態になるのは、だいたい贅沢三昧していた人々です。最後はかなり嫌な存在になって死んでしまうのです。ですから仏教で言うのは、なんでも、中道、ほどほどでやらなくてはいけないということです。お金持ちで豊かに生まれても、それに溺れてはいけない。「いくらかのレベルで生活して、残りはお布施したり人々のために使いなさい。自分の徳で得た財産ですが、自分のためだけに使ってはいけない」ということです。自分が積んだ徳だから、豊かに生まれたのです。ですからある面では、全部、自分が自由に使う権利がある。自分が仕事をして儲かったお金だから、自分がそれを使って贅沢に食べて暮らして生きる権利は充分ありますが、別の立場から見れば、「それはちょっと、よした方がいい」ということなのです。適当に使って、余分は人のために使って、新たに徳を積むということをしなくてはいけない。徳を積みながら生きていれば、幸福に生きて、幸福に死ぬことができます。 『一瞬で心を磨くブッダの教え』第4章 幸福に生きるための秘訣《慈しみ》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第五巻 業(カルマ) と輪題の分析」 藤本晃氏との共著(2009年) p299】

 
 
 

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