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252 異論が成り立つ場合は主観

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年7月17日
  • 読了時間: 1分

 真理なら答え・意見は一つなのです。「地球は丸い」というのは主観ではありません。客観的な事実、真理です。一方で世の中のことは、異論だらけです。異論が成り立つということは、それは主観です。主観だから、すべての論には反論が成り立つのです。会社の会議であろうが、夫婦の話であろうがけんかになるのは、「論には常に反論がある」ということがわかっていないからです。自分の意見はあくまで主観なのです。事実なら反論はないのです。 奥さんの意見が完全な事実なら、旦那さんには反論できません。たとえば旦那さんがサラ金から借金をしてパチンコをしたとします。そこで奥さんに「督促の電話があったけど、あなたはお金を借りたのではないですか? 」と問われたら、旦那さんに反論はできません。けれど「なぜお金を借りたの? 」と問えば、それは主観を尋ねているので、「小遣いが少なすぎる」とか反論が成り立ちます。それに対して奥さんも「だってあなたの給料が少ないでしょう」などと反論することになって、けんかになるのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《真理の法則》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【平和の生滅 生存の矛盾を超えて お釈迦さまが教えたこと2, 2006年 p144】

 
 
 

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お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
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