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254 「無限」という概念は、因果律で成り立つ

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年7月19日
  • 読了時間: 1分

 皆さんはよく「お腹がすいた」と言うでしょう? それは原因でしょうか、結果でしょうか? 因でしょうか、果でしょうか? 答えは「因であり、果でもある」です。「果である」と言う場合は、それまでの時間しばらくご飯を食べていなかったことや、前回の食事で体に入った栄養を使い終わったことが原因となって、お腹がすいたという果になったということです。しかし、お腹がすいたということが原因になって、我々はご飯を食べますね。ですから、「お腹がすいた」という現象は果でもありながら因でもあるのです。「お腹がすいたこと」が原因で、「ご飯を食べて満腹になった」ということが結果になったとしても、それは一回で終わりませんね。今度は満腹になったことが原因になって、次の結果を出すのです。このように、日常のシンプルな現象を少し調べるだけでも、因果の流れ、というのがあるのです。何か結果を出しても、結果が因になりますから、どこまで流れるのかというと無限でしょう。存在についての無限という概念は、因果律によって成り立ちます。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《真理の法則》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3 (サンガ新書010,2007年) p88】

 
 
 

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