top of page
検索

281 死とは生のことである

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年10月5日
  • 読了時間: 1分

 仏教的に「死」というのは「生」のことです。何か壊れて何か生まれる、何か壊れて何か生まれる、何か壊れて何か生まれるということは命です。輪廻です。私たちの問題は、それが嫌だと思うことです。生死の流れを理解できず、死を嫌がるのです。自然法則を嫌がるというのは、愚かな気持ちです。それは法則違反です。生死も、どうすることもできないことです。「生」に対して、「死」に対しては、「放っておけ」というのが答えです。「課題にするなよ」と。課題にするなら、あなた方は、ちょっと思考がおかしい。だったら、この命のからくりをしっかり見なさいよ、と。命のからくりがはっきりすると、「死」のおかげで生きているとわかります。「生」のおかげで死が成り立っているのです。「死」と「生」があるから命が成り立つのであって、「生」だけでは成り立ちません。何かが壊れなければ、何かが生まれることもできないのです。そういう生死の流れがわかってきます。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第5章 老病死に向き合い、人生を豊かにする《死》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【僧侶が語る死の正体 (2016年) p282】

 
 
 

最新記事

すべて表示
六番目の行道智見清浄:⑦ 省察智paṭisaṅkhā ñāṇa

六番目の行道智見清浄:⑦ 省察智paṭisaṅkhā ñāṇa  火事の喩えの続きです。燃えている寝室から脱出したくなるでしょう。しかし、その気持ちになっただけで、脱出成功とは言えません。まだ脱出を実行してもいません。脱出を実行する前に、やらなくてはいけないことがあるのです。それは火事になっている寝室を観察することです。正しく観察しないで脱出を実行すると、死んでしまうかもしれません。窓から逃げれば

 
 
 
六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa

六番目の行道智見清浄:⑥ 脱欲智muñcitukamyatā ñāṇa  自分がいる状況は確実に危険であると分かれば、そこから脱出したくなります。自分の寝ている部屋が火事になってごうごうと炎が上がっていると発見したら、心は瞬時に脱出したいと思います。「きれいな部屋だったのに」「気に入っていたのに」「模様替えしたばかりだったのに」云々とは考えません。この喩えのように、修行者は一切の現象から脱出するべ

 
 
 
六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa

六番目の行道智見清浄:⑤ 厭離智nibbidā ñāṇa  一切の現象は怖畏のみをつかさどるのが本性であるならば、現象に対する未練を捨ててしまうのが理性的です。おいしそうに見える食べ物がある。食べたいという気持ちもある。その食べ物を徹底的に調べてみたところ、少量服用しただけでも死に至る猛毒で汚染されていると発見する。その発見と同時に、その食べ物に対して今まで持っていた未練は跡形もなく消えるのです。

 
 
 

コメント


bottom of page