top of page
検索

305 死に対する悲しみは「エゴ」の表れ

  • sapporobukkyoujuku
  • 2023年10月29日
  • 読了時間: 2分

 我々が悲しいと思うのは、自分と関係がある人の死です。関係のない人の死に対しては無関心です。ですから、「死者を弔っているから、自分はよくできた人だ」と単純に考えることはできません。もし本当に「死は悲しいことだ」と思うのなら、一切の生命の死を悲しまなくてはならないはずです。しかし、親しい人の死しか悲しまない我々にとっては、人間以外の生命の死は管轄外で、なんなく殺してしまいます。人間以外は、生命だと思うことさえもないのです。ですから、死者に対して悲しむことは、仏教から見れば不善行為です。世間では人が死んだら泣くことが優しい行為ですが、仏教では亡くなったら亡くなったまでのことで、そこで悩むのは不善行為になります。「あなたが泣いても、死んだ人には何の役にも立たない」ということは、経典にも書かれています。「死の悲しみは個人に対する愛着、執着から起こる」ということを憶えておいてください。死に対する悲しみは、「エゴ」の表れです。しかし、本人は逆に感じるのです。涙が止まらない自分には、エゴのひとかけらもないと。しかし、それこそがエゴなのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第5章 老病死に向き合い、人生を豊かにする《死》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【智慧は人生の針盤 人がめざすべき幸福の話 (お釈迦さまが教えたこ8,2009年) p104】

 
 
 

最新記事

すべて表示
無常・苦・無我と解脱の関係

無常・苦・無我と解脱の関係  解脱に達するためには、一切の現象が無常であり苦であり無我であると観察しなくてはいけません。集中力が上がったら、修行者は五番目の道非道智見清浄に入るところから意図的に無常・苦・無我を観察してきました。そのとき、現象は互いに異なる三つの本性を持っているように観えます。さらに修行すると、無常・苦・無我のうち一つの本性だけが心によく分かるようになります。心はその本性にあえて興

 
 
 
自分の修行は完了したのだろうかと、観察する

自分の修行は完了したのだろうかと、観察する  この観察が終わったら、自分の修行は完了したのだろうかと、観察します。まだいくつかの煩悩が残っていること、まだまだ感情が湧きでる可能性があることを発見します。それは残りの煩悩の観察です。  残りの煩悩の観察が、悟りに達してたちまちできるかどうかは分かりません。解脱に達したショックが冷めたところで、再び心を観察するやり方もよいと思います。遅かれ早かれこの観

 
 
 
いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる

いろいろな方法がすべて間違いであるとが実証済みとなる  解脱に達することができたのは、釈尊の説かれた観察方法を実践したからです。したがって、苦を乗り越えるためには観察実践が正しい方法であるということになります。心を清らかにするために、魂を浄化するために、真我を体験するために、などなどの目的を設定して、その目的に達するために世の中でいろいろな方法が説かれています。それらはすべて間違いであると、修行者

 
 
 

コメント


bottom of page