top of page
検索

306 自分とは、大海の一滴

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年9月20日
  • 読了時間: 2分

 地球の四分の三ぐらいは海ですから、海というのはすごく大きいですね。しかし、どう見ても、一滴、一滴で海水でできています。「私」と思う自分は、その一滴の水のような存在です。たくさんの生命がいる中で、たった一つの生命として生きる「私」を海にたとえると、「一滴の海水として、海の中で生活している」状態です。そのとき、「私」という一滴の海水が海としているなら、何の問題もなく、大丈夫です。しかし、自分だけ、一滴の水だけ出しゃばって、威張って、「私が偉いぞ、特別だぞ、唯一の存在だぞ」と思うとしたら、どうでしょうか? 一滴の海水である「私」が、どんなに威張っても、大海に対して何の影響もありません。話にもならない無智な思考です。威張るだけでなく、「私は、こんなほかの海水と一緒にいたくない」といって飛び上がってしまったら、たちまち蒸発してしまいます。わざわざ威張って、自分が他人と違う特別な命だと思ったりして、他人を差別したりすると、その人の人生にあるのは苦労だけです。結局は怒り、憎しみ、落ち込み、傲慢、欲、無知などの悪感情がたまって、心が悪臭を放つ汚れた存在になるのです。『一分で読むブッダの教え』第5章 仏教が教える「生きること」の本質《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【結局は自分のことを何もしらない 役立つ初期仏教法話6」 (サンガ新書2008年) p36】

 
 
 

最新記事

すべて表示
nāma とrūpa の流れに過ぎない

nāma とrūpa の流れに過ぎない 解説すると、このようになります。「私」というのは、心と物質の流れです。二種類の流れに、仮に、世俗的に「私」と言っているだけです。「私」という何かがあるわけではないのです。『念処経』で説かれているように、この経験を活かして自分を観察する・他を観察する・両方を観察する、という順番でおこなってみるならば、以下のような結論に達します。「生命とは、生きるとは、命とは、

 
 
 
nāma とrūpa を区別して発見する

nāma とrūpa を区別して発見する それから客観的に確認作業を実行してみるようになります。そうなると、手を上げます、下げます、と実況するのであって、それは「私の手」という気持ちから離れています。ただ「手」という客観的な物体として観るのです。座る瞑想もこの調子でおこないます。集中力があり、客観的に確認しますから、より詳しく現象を観ることができるようになります。 手・足・お腹などは純粋な物体です

 
 
 
「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する

「私」という気持ちを措いて、客観的に身体を観察する 集中力が上がって自然に実況中継が流れるところまでくると、修行者が確認する現象も変わっていきます。本当は「現象が変わる」という言葉は、正しくはありません。今まで気づくことができなかった現象にまで気づけるように成長した、ということです。どのように現象が変わるのか、次で説明していきます。 初心者の修行には、「私」という気持ちがこびりついています。手を上

 
 
 

コメント


bottom of page