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41 我感じる、ゆえに我なし

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年11月18日
  • 読了時間: 1分

「我感じる、ゆえに我なし」です。なぜならば、感じることは瞬間で変わるのだから。瞬間で「我」は死んでいるのです。だから瞬間に感じることが、その瞬間の我です。新たな我が生まれるためには、今の我が死ななくてはいけないのです。瞬間に変わらないと、感覚は成り立ちません。一時的に我があると仮定しても、その我は瞬間で変わるということです。一定して変わらない、実体的「我」を仏教は否定します。私たちには、瞬間瞬間に自分という実感が起こるのです。それを「瞬間の我」「瞬間の私」と言っても構いません。しかし大量の「瞬間の私」を一束にまとめて、「変わらない私がいるのだ」と思うことは錯覚です。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第1章 私たちの悩みを解決する《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【観察 「生きる」という謎を解く鍵 想田和弘氏との共著 (2018年) p225】

 
 
 

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