top of page
検索

57 個人とは大海の一滴の水

  • sapporobukkyoujuku
  • 2024年12月3日
  • 読了時間: 1分

 個人とは、大海の一滴の水だとしましょう。この一滴の水が、自分は他の水と違った個人であると主観を作っているのです。この主観がある限り、大海は乗り越えられないほどの巨大な存在に見えるし、海のさまざまな変化につれて困ったり怯えたりもします。それでこの一滴の水が何かの方法で、「自分は別な個としての存在ではなく、大海の一滴の水にすぎない」と理解する。それで個という意識を捨てて、大海になりきる。その時点から、悩みも恐怖感もなくなるし、あえて「自分がいる」という苦しさも楽しみも消えて、安定した気分になるのです。苦しみも楽しみもないといえば否定的に感じますが、個だと錯覚していた一滴の水が大海と同一であると発見することは、ネガティブな状況ではありません。内と外の境目が、なくなっているのです。『一瞬で心を磨くブッダの教え』第1章 私たちの悩みを解決する《自我》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ブッダの実践心理学 第七巻 p113】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page