大念処経sapporobukkyoujuku2025年3月25日読了時間: 1分大念処経は一般の人々もかなり暗記しています。長いけれど暗記しているのです。私も子供のころお寺へ行ったとき、在家信者さんたちは、修行に来たら、夜ゆっくりと朝まで暗記して唱えていたのです。さすがにいまの人々は憶えてないみたいですが。私がスリランカにいた三十五年ぐらい前までは、お寺に来るほとんどの人々が憶えていたのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ 2016、p.18】
観察の汚れ:③ 喜pīti観察の汚れ:③ 喜pīti 修行中、喜びが湧いてきます。今までも修行が進んでいると喜びを感じた経験があったことでしょう。それは「うまくいっている」という程度の喜びです。しかし、今度のこれはわけが違います。喜びの波が溢あふれ出すのです。何かやり遂げたときの喜びと違って、喜びの波が勝手に現れて、身体中に行き渡ります。終わりそうもない気がします。純粋な喜びなので、何の副作用も見当たりません。「喜び中毒
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。 修行者はこの落と
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa観察の汚れ:② 智慧ñāṇa 言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。 ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え
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