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appaṇihita-vimokkha 無願解脱

  • sapporobukkyoujuku
  • 6月30日
  • 読了時間: 1分

appaṇihita-vimokkha 無願解脱

 修行者の心が、七番目の智見清浄のステージで無常・苦・無我のうち「苦」という本性にロックされたとしましょう。修行者に一切の現象が持つ苦という本性が分かりやすくなるのです。それに集中します。思惟智で苦を観察するのです。苦を対象にして種姓心が生じ、次に道心が生じます。次に果心が生じて解脱に達します。

 苦とは誰も祈願するものではありません。期待するものでも、望むものでもありません。ですからかえって、苦の世界で生きている限り、願は生起し続けます。解脱は答えです。そちらには願はありません。ですから苦に集中して解脱に達する場合、その解脱の名称は無願解脱となるのです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p166】

 
 
 

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