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vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤

  • sapporobukkyoujuku
  • 10月23日
  • 読了時間: 1分

vipassanā-ñāṇa 観智 ①~⑤ ヴィパッサナー実践をする修行者は、まず客観的に観察して、生きるとは何かとデータを集めます。そして ①思惟智が現れます。命とは生滅している流れである、と発見します。次に ②生滅智が現れます。現象は派手に壊れるものである、と発見します。次に ③壊滅智が現れます。今まで生きることに喜びを感じましたが、今度は生きることに対して、恐怖を感じるのです。そして ④怖畏智が現れます。 ⑤結論として、命には何の価値もない、と発見します。「生きていきたい」という執着がある限り、苦しみの虜になってしまう、と発見します。分かりやすく俗っぽく言えば、生きるとはろくでもないことだ、と発見することです。しかしこれは、品のない言葉ではありません。超越した智慧なのです。何にも、何の価値も成り立たない、と発見することです。これは無価値論だと言うべきところです。過患智とは、偏見で長所を無視して、短所だけ取り上げるやり方ではないのです。無常たるものには、価値は成り立たない、という智慧のことです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p49】

 
 
 

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