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なぜ見解が悪いのか

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月10日
  • 読了時間: 1分

なぜ見解が悪いのか 概念は、都合により自然に起こる捏造です。存在欲があるから、生きていきたいから、データを捏造するのです。炊いた米を「おいしいご飯だ」と捏造すると、欲が生まれる。ネズミの死骸を「不潔で気持ち悪い」と捏造すると、怒りが生まれる。牧草を「ただの草ではないか」と捏造して無関心な態度をとると、無知が生じる。このような概念を掻き回すと、貪瞋痴がなおさら強くなります。見解という幻覚になるのです。 捏造はやめられません。ネズミの死骸が気持ち悪いと捏造した人に、「でも、カラスにとってはね、それはご馳走ですよ。気持ち悪くないんですよ」と教えてあげれば、その事実を理解することができます。しかし「私がこの世で死んでも天国で永遠の命になります」という幻覚に陥った人をどのように諭せばよいのでしょうか。お手上げです。私は神に創造された唯一大事な存在ですよ、という幻覚に陥っている人を、どのように目覚めさせればよろしいのでしょうか? 見解をつくる人々は、激しい貪瞋痴に束縛されています。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p78】

 
 
 

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