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「唯一の道」を説く

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月3日
  • 読了時間: 2分

「唯一の道」を説く

 四つの実践方法を紹介するときはekāyano という言葉がありまして、これはone way、唯一の道、これしか道がないという意味で一般的には理解しています。パーリ語で言えば「比丘らよ、この道は唯一の道である……」と訳さなければいけないのです。他の経典ではそれほど断言的な言葉は出てきません。初期仏教の経典では、あとから勝手に編集できないように、厳密に真理を語っていますが、「これしかないよ」とわざわざ言う必要もないのです。お釈迦様は品格を大切にしていましたから、「私こそ真実を語っているんだぞ、他の人の説く真実を聞くな」というような言葉はないのです。逆に、「私が言っていることが嘘だと思うならば、嘘だと証明してみなさい」というふうに語ります。教えへのアプローチをオープンにしておくのです。なぜかというと、ブッダの教えは真理だから、誰がどのように研究してみても真理を発見する人は同じ真理を発見するはずなのです。しかし、他の人が真理を発見していない場合、お釈迦様はどうされるのでしょうか。「あの人の言っていることは間違っている」などとは言いません。他の人が違う意見を言う場合は、その人がどのような方法でその結論に達したのかを調べるのです。

アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p18

 
 
 

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