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「理に適っている」見方を学ぶ

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月6日
  • 読了時間: 1分

「理に適っている」見方を学ぶ

 それからyoniso-manasikāra という言葉がありまして、漢訳仏教語では「如理作意」となっています。理とは「ものの理」のことです。その「理の如く」に「意識(意)をはたらかす(作す)」ということなのです。いいかげんに自分の感情、感覚で、自分の好き嫌いで見るのではなくて、「理の如く」に見ればいい。それがありのままということなのです。如理作意という言葉はよく考えぬいて訳された仏教語なのですが、一般的には使われていません。一般的に我々が言うのは「理に適っている」という言葉です。理に適っているという場合の理というのは、どういう意味でしょうか。言っていることは正しい、論理的であるということでしょう。しかし如理の代わりに「理に適っている」という言葉を仏教で使う場合は、「事実に適っている」という意味になります。yoniso-manasikāra のyoniso は「原因」であって、どのようにこの現象ができたのか、現象がどんな過程でどのように生まれて、消えていくのかをしっかりとmanasikāra「観察する」こと。つまり因果法則を発見することなのです。だから「ありのままに見る」と誰でも因果法則を発見するはずです。 

アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンンガ2016 p20

 
 
 

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