top of page
検索

すべて有論の範疇 (はんちゅう)

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年10月13日
  • 読了時間: 1分

すべて有論の範疇 (はんちゅう) すべての生命の認識は、「有論 (うろん)」です。それが膨張すると、存在論にも、我論にもなります。それにとどまらず、実体論、有身見、絶対神論、梵我一如論、如来蔵論、大日如来(法身仏)などなども現れるのです。人は何を認識しても、何を考えても、すべて有論の範疇です。虚無論者もいるでしょう? しかし彼らが、「有」以外の何かを経験しているわけではないのです。今有るものが、跡形もなく、再生することもなく、虚無になるのだと、頭の中で概念を合成しているだけです。「有」のみを見て「無」を推測しても、正しい結論には至れません。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p45】

 
 
 

最新記事

すべて表示
現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません

現象のありのままの姿を観ていることが解脱であるとは言えません  ここはとても難しいポイントです。智慧は本物です。観察する三相も現象の本物の姿です。ありのままの姿です。修行者も指導者も、疑問に思う必要はまったくありません。では、なぜ障碍になるのでしょうか。修行者が自分の経験を「これは解脱ではないのか」と解釈したからです。これは、ヴィパッサナー実践する誰もが陥りやすい落とし穴です。  修行者はこの落と

 
 
 
観察の汚れ:② 智慧ñāṇa

観察の汚れ:② 智慧ñāṇa  言葉がないので、ñāṇa を智慧と訳しました。仏教用語としての智慧はpaññā です。そのpaññā ではないと言うために、障碍になる智慧についてパーリ語でñāṇa という言葉を使っているのです。  ここで言うñāṇa とは、ヴィパッサナーの智慧のことです。強烈なスピードで無常・苦・無我が観えるのです。どんな現象を観察しても、その現象は無常・苦・無我に分解されて観え

 
 
 
観察の汚れ:① 光obhāsa

観察の汚れ:① 光obhāsa  Obhāsa とは光のことです。瞑想中、頭の中にじわじわと光が現れてきます。まぶしくなるほど明るくなる場合もあります。光とは目を開ければ見えるものですが、この光は目を閉じていても見えます。座る瞑想を止めて歩く瞑想などをするときも、この光がどこにでも現れるようになります。当然、そうでない場合もあります。どの程度の光かということは個人差があると思います。目で光を見るの

 
 
 

コメント


bottom of page