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ただそれぐらいの感覚の世界

  • sapporobukkyoujuku
  • 8月16日
  • 読了時間: 1分

ただそれぐらいの感覚の世界 そうやって感覚を分けて、感覚が生まれてくることを観察する。消えていくことを観察する。それで生まれて消えて、生まれて消えていく流れを観察する。自分だけではなくて、世のなかのどこを観ても同じことなのです。 人は音楽を聴いているとき、「楽しい感覚が生まれているのだ」と分かります。誰かが喧嘩をしている音が流れていたら、「この人も相手の人も嫌な感覚を作っているのだ」といった具合に、それは明確に見えることでしょう。この人はいま楽しい感覚を味わっている、苦しみの感覚を味わっている、非苦非楽の感覚を味わっている、ということは分かるはずなのです。これは自分のことを観察しておけば、簡単に見えます。 それで「ただ感覚があるのみだ」ということが分かってきたところで、ただそれぐらいの感覚の世界だということで、「価値」が消えてしまって楽になるのです。 【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016 p144】

 
 
 

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