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ちゃんと気づいている

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年5月30日
  • 読了時間: 1分

ちゃんと気づいている 次のセクションは、正知の部と訳されています。ここでも身体の瞑想が説明されます。Abhikkante というのは前に進むということ。Paṭikkante というのは後にさがること。この場合はsampajānakārī になって行なうのです。Sampajānakārī とは、よく気づいていることです。よく知った上で、行なうことです。前に進むときもよく気づいている。後にさがるときもちゃんと気づいている。Ālokita というのはまっすぐ見ること。Vilokita というのは横にして見ること、「あちこち見るにも」と訳されていますね。まっすぐ見るときもよく気づいて見る。首を回しながら見るときもちゃんと承知の上で見る。経典では、承知ではなく正知ですね。そこでsamiñjite pasārite 曲げるにも、伸ばすにも。身体を色々曲げるときもちゃんと正知しながら、よく知りながら、確認しながら、気づきながら、身体を曲げる。身体を伸ばすときもちゃんと気づきながら身体を伸ばす。【アルボムッレ・スマナサーラ、大念処経、株式会社サンガ2016.p79】

 
 
 

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