top of page
検索

もしかしたら何かがあるはず、という気持ち

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月13日
  • 読了時間: 2分

もしかしたら何かがあるはず、という気持ち 我々人間は、神、守護霊、先祖の霊、ただの霊、精霊、山、川、海、水、火、雷、風、聖地、樹木、岩、蛇、馬、ライオン、ワシ、狐、龍、等々の何かを信仰して、何かに頼って、安心感を獲得するのです。存在欲に燃料を供給します。それらは空(から)の安心感ですが、否定する勇気はありません。もしかしたら何かがあるはず、という気持ちは消えません。このような生き方が、見解の網に絡まった生き方なのです。そう簡単には抜けられません。 見解にはまっているとは、存在欲にはまっていることでもあります。存在欲があると当然、怯え、恐怖感、不安からも抜けられません。これは怒りの感情です。この両方が、無知だから起こります。要するに、「見解がある」とは、心が汚れていることなのです。 例えば、「私は神を信仰して謙虚にまじめに生きています」と宣言する人々がいます。自分は信頼できる、やましいことをしない人間だと言いたいつもりでしょうが、仏教の見解の説明から通訳すると、「私は見解と貪瞋痴の罠にはまっていることを自慢に思っています」という意味になります。もし見解の罠から抜けることができたならば、その心はある程度は貪瞋痴の汚れから抜けたことになります。この状態がdiṭṭhi-visuddhi 見清浄です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p79】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page