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もしかしたら何かがあるはず、という気持ち

  • sapporobukkyoujuku
  • 2 日前
  • 読了時間: 2分

もしかしたら何かがあるはず、という気持ち 我々人間は、神、守護霊、先祖の霊、ただの霊、精霊、山、川、海、水、火、雷、風、聖地、樹木、岩、蛇、馬、ライオン、ワシ、狐、龍、等々の何かを信仰して、何かに頼って、安心感を獲得するのです。存在欲に燃料を供給します。それらは空(から)の安心感ですが、否定する勇気はありません。もしかしたら何かがあるはず、という気持ちは消えません。このような生き方が、見解の網に絡まった生き方なのです。そう簡単には抜けられません。 見解にはまっているとは、存在欲にはまっていることでもあります。存在欲があると当然、怯え、恐怖感、不安からも抜けられません。これは怒りの感情です。この両方が、無知だから起こります。要するに、「見解がある」とは、心が汚れていることなのです。 例えば、「私は神を信仰して謙虚にまじめに生きています」と宣言する人々がいます。自分は信頼できる、やましいことをしない人間だと言いたいつもりでしょうが、仏教の見解の説明から通訳すると、「私は見解と貪瞋痴の罠にはまっていることを自慢に思っています」という意味になります。もし見解の罠から抜けることができたならば、その心はある程度は貪瞋痴の汚れから抜けたことになります。この状態がdiṭṭhi-visuddhi 見清浄です。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p79】

 
 
 

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