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見清浄に達するために

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月14日
  • 読了時間: 1分

見清浄に達するために 特別に何もする必要はありません。ただヴィパッサナー実践を続けておこなうだけです。心の成長のためには、何かを繰り返し、繰り返しおこなう必要があるのです。ここで修行者は、気づきの実践を繰り返しおこないます。今までおこなったことがない仕事なので、慣れるまでは大変苦労します。しかし徐々に慣れてくると、心も徐々に成長する。徐々に安らぎを感じられるようになる。 Visuddhi(清浄)という名前で説明しているのは、心がどのように成長していくのかという順番です。心の成長はここで説明している各清浄の順に起こります。一つを飛ばして次に行くことはできません。清浄に達したい、という気持ちさえもよくないのです。そのとき幻覚が生じて、清浄の妨げになります。ですから、ひたすらヴィパッサナー実践を続ければ充分です。 素直にヴィパッサナーの気づきの実践をおこなう修行者は、まず戒清浄に達します。そして次に、心清浄に達します。さらに修行を続けると、自然に見清浄に達するのです。このとき、修行者には「これが見清浄だ」という実感は起こりません。修行者の瞑想経験から現れる智慧に、専門用語で見清浄と名付けているだけです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p80】

 
 
 

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