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ヴィパッサナー瞑想の対象

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月8日
  • 読了時間: 2分

 サマタ瞑想とは、精神的に向上することです。ヴィパッサナー瞑想は、清浄visuddhi に達することです。精神的に向上した人の心もある程度は清らかですが、汚れる恐れがあります。清浄に達する人々の心は、当然、精神的にも向上しています。清浄の七段階を紹介してから、アビダンマ・テキストは「三相tilakkhaṇa」を紹介します。「三相tilakkhaṇa」とは、みなさんが知っている、無常・苦・無我という三つです。

 修行する人は、釈尊の提示された真理がそのとおりであるか否かを試してみればよいのです。ですから、瞑想対象になる現象は、なんでもよいのです。それは、無常であるはず、苦であるはず、無我であるはず、です。では、目の前にある一輪の花を観察して、無常だ、苦だ、無我だ、と分かったところで、心が清浄に達するのでしょうか。この点は問題です。「自分も同じ実相なのだ。すべての現象も同じ実相なのだ」と進めていかなければ、普遍的な真理だとは言えません。解脱に達するために一番早い道は、自分自身の身体と心を観察することです。それで無常などを発見すると、確実に心が清浄に達します。解脱を経験します。

 このようなわけで、七つの清浄を学んだ人は、次に三相を学ばなくてはいけないのです。三相は解脱に達する道の中心点です。観察瞑想の対象は、無常・苦・無我という三相です。最初から真理を観察するので、確実に智慧が現れます。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p20】

 
 
 

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