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七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ乗り物(智慧)

  • sapporobukkyoujuku
  • 6月2日
  • 読了時間: 1分

七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ乗り物(智慧)

 次の対話は、このようになります。サーリプッタ尊者「戒清浄は無執着の完全な涅槃でしょうか?」、プンナ尊者「いいえ、違います」という流れで、プンナ尊者は「七番目の智見清浄も無執着の完全な涅槃ではありません」と答えています。これ以上、清浄の位はないので、サーリプッタ尊者は説明するようにと促します。

 プンナ尊者が、ここで七つの車の喩えを出します。ある目的地にたどり着きたいと思った王様が、七台の車を用意してもらいます。一番目の車に乗って行けるところまで進んだら、そちらに二番目の車が用意されています。それに乗って、また行けるところまで進んで、三番目の車に乗り換えます。それを繰り返し、七番目の車に乗り換えて、目的地に達するのです。これは見事な喩えです。智慧は解脱ではないのです。七清浄は、修行者を解脱へと運ぶ(成長させる)乗り物です。ここで乗り物というのは、智慧のことです。

【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p156】

 
 
 

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