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主観をやめ、客観を育てる

  • sapporobukkyoujuku
  • 9月25日
  • 読了時間: 1分

主観をやめ、客観を育てる 思惟智とは、ヴィパッサナー実践をする人に最初に現れる智慧です。思惟智とはどういうものか、さらに説明したいと思います。 世の中の人々は、ものごとを主観で判断して生きているのです。「主観で判断して生きている」とはどういうことかといえば、貪瞋痴などの感情に基づいて生きている、ということになります。感情でものごとを判断するので、生きる上で何一つ、うまくいかないのです。さまざまなトラブルが起こります。たくさん勘違いも起こります。悩み苦しみが絶えません。事実を理解することにはならないのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p34】

 
 
 

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見解を破る

見解を破る 解脱の境地に達する修行者は、捏造機能を止めるのです。自然に捏造してしまう習慣がなくなった状態は悟りであると、釈尊は説かれます。 修行を始めた私たちに、いきなり捏造機能をストップすることはできません。それには長い修行が必要です。順番に進めばよいのです。最初は見解を破るところからです。すべての見解がいい加減な幻覚であると発見するのです。目覚めてみるのです。 我々の心は、どれほどの見解・信仰

 
 
 
なぜ見解が悪いのか

なぜ見解が悪いのか 概念は、都合により自然に起こる捏造です。存在欲があるから、生きていきたいから、データを捏造するのです。炊いた米を「おいしいご飯だ」と捏造すると、欲が生まれる。ネズミの死骸を「不潔で気持ち悪い」と捏造すると、怒りが生まれる。牧草を「ただの草ではないか」と捏造して無関心な態度をとると、無知が生じる。このような概念を掻き回すと、貪瞋痴がなおさら強くなります。見解という幻覚になるのです

 
 
 
見解は捏造した概念の組み合わせ

見解は捏造した概念の組み合わせ 見解とは具体的にはどういうものでしょうか? 「私がいる」「私に魂がある」「世界は神が創造したものである」「全知全能の神がいる」「死後永遠の命がある」などです。宗教と哲学は組織化された見解なのです。すべての迷信も、極めて厄介な見解です。人間のあいだで一体どれくらい見解があるのか、知るすべもありません。古い見解を受け継いだりもしますし、他人の見解を学んで受け取ったりもし

 
 
 

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