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見解を破る

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年12月11日
  • 読了時間: 1分

見解を破る 解脱の境地に達する修行者は、捏造機能を止めるのです。自然に捏造してしまう習慣がなくなった状態は悟りであると、釈尊は説かれます。 修行を始めた私たちに、いきなり捏造機能をストップすることはできません。それには長い修行が必要です。順番に進めばよいのです。最初は見解を破るところからです。すべての見解がいい加減な幻覚であると発見するのです。目覚めてみるのです。 我々の心は、どれほどの見解・信仰・迷信・思考・哲学などで抑えられていることでしょうか? 心はくたくたです。何の自由もありません。人々は、お祈りするわ、祈祷するわ、除霊してもらうわ、占ってもらうわ、パワースポットを巡って宇宙の力を入れてもらうわ、風水・方位学に凝るわ、特定の信仰がないわりにすべての宗教が同じ真理を語っていると思ってどんな宗教にも敬意を抱いたり脅威を感じたりするわ……、きりがないのです。こんな生き方は、自由な生き方でも安らぎの生き方でもありません。貪瞋痴に、渇愛に、徹底的に束縛されている生き方です。見解の爆撃を受けているために、人間はみじめに生きているのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p78】

 
 
 

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