top of page
検索

乗っていた船が壊れて沈没している

  • sapporobukkyoujuku
  • 2025年10月17日
  • 読了時間: 1分

乗っていた船が壊れて沈没している 修行者の心が、次に「滅」という現象に定着します。「壊れてもまた生まれるから」という慰めも得られなくなるのです。すべて壊れて、壊れていくのです。うたかたのようです。それまでは執着することで、生きることをなんとか繋いでいたのです。その執着が、成り立たなくなったのです。どう安心すればよいのか、術が見つかりません。そこで激しい恐怖感に襲われます。もう、修行を始めたときの人間ではありません。人格が変わっているのです。 執着をして生きている人々の生き方は滑稽に見えますが、自分の人生も激しく揺らいでいるのです。それには理由があります。それは、心の向きです。まだ、心が俗世間の方に向いているためです。たとえ解脱を目指して修行を始めたとしても、解脱とは何か、分かっていたわけではありません。俗世間の生き方と比較して、解脱という何かを推測しただけです。そして、この時点で自分が乗っていた船が壊れて沈没しているのに、浮き輪さえも見つからない状態に陥ります。このような精神状態に達することも、人格向上です。ここを経て修行者は、徐々に世間の次元を超えていくのです。【アルボムッレ・スマナサーラ、ブッダの実践心理学第8巻、株式会社サンガ2013 p46】

 
 
 

最新記事

すべて表示
お釈迦様が発見された因果法則

お釈迦様が発見された因果法則では、「Aがあるとき、B が生まれる」ということでA とB の間で必然的な関係が生まれてくるのです。因果法則を語る場合、お釈迦様はtathatā(かくの如き状態、真如、涅槃)、avitathatā(虚妄でない状態、真実なる状態、不異如性、真性、不虚妄性)、anaññathā(不異如に、不異に、真実に)、idapaccayatā(これを縁とすること、縁起の道理、此因性、相

 
 
 
「因果法則」は存在そのものの研究成果

「因果法則」は存在そのものの研究成果  お釈迦様の立場からは、単なる純粋論理pure logic というのは意味がないのです。いくらでも回転していくのですから。純粋論理ではなくて、実践性practicability という、実際の人間の生き方にどれぐらい当てはまるかということ、人間の生き方そのものが一番大事であって、そこを抜きに論理だけを発展させません。お釈迦様は人間が生きていること、存在そのもの

 
 
 
広げていけれど

とにかく論理学を広げていくけれど、なかなか実例は出てこなくなってしまいます。数学の場合も同じことで、いくらでも数学は語れますし、つくれますが、実際の世界では例はなくなってしまうのです。そういうことで、古代インド、お釈迦様の時代では「論理だけ」というのはあまり人気がなかったのです。「お釈迦様は論理的だ」と言われたらすごく気に入らない。そういう評判を聞くと、出かけて行って反論する。黙ってはいないのです

 
 
 

コメント


bottom of page